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「正直であれ」故郷での講演会と、関税自主権の回復

小村には面白いエピソードが残っています。ポーツマス条約を締結し、故郷に戻った際、県立宮崎中学で講演会を開いたのです。雄弁な話を期待した学生たちを前に小村は、「正直であれ、正直は何より大切である」とだけ語り、講演会はわずか1分で終了しました。

ポーツマス条約締結での小村の粘りと誠実さを見たアメリカほか列強各国は、明治44(1911)年、ついに日本の関税自主権の回復を認めました。そしてその直後、小村は肺結核で亡くなってしまいます。まるで、条約改正のための生涯であったかのようでした。

【飫肥城】(別名・舞鶴城)
鎌倉時代からこの地を治めた日向伊東氏は、島津氏と争うが、伊東祐兵(すけたか)が、九州平定に乗り出した豊臣秀吉につき、飫肥の地を与えられた。関ヶ原の戦いでは東軍につき本領を安堵。飫肥藩5万7000石の初代藩主となる。5代藩主・伊東祐実(すけざね)の大改修で城郭の体裁が整ったとされる。明治6(1873)年、破却されたが昭和53(1978)年に大手門、昭和54(1979)年に松尾の丸御殿が再建された。
住所:宮崎県日南市飫肥10丁目

飫肥城 okap212321@Adobe Stock

【小村寿太郎】
こむら・じゅたろう。1855~1911年。飫肥藩士の長男として生まれる。大学南校(東京大学の前身の一つ)から法律の勉強のため、アメリカ・ハーバード大学に留学。帰国後は司法省に入り、外務大臣・陸奥宗光に認められ、清国ほかで外交官として活躍した。明治34(1901)年、桂太郎内閣で外務大臣となり、翌年には日英同盟を締結。日露戦争の勝利を受けて明治38(1905)年、ポーツマス条約を結ぶ。大陸政策を進め、日本の地位向上を図り、明治44(1911)年、幕末以来日本の悲願だった関税自主権の回復を果たした。身長が低くやつれた表情とすばしっこい動きから清国駐在時はネズミ公使とあだ名されたという。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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