陸奥宗光が見込んだ「語学力」と「粘り」
アメリカから戻った小村は、司法省の判事になります。4年後には外務省へ異動となりますが、上司とそりが合わず閑職に追いやられました。その頃父の事業が失敗し小村家は多額の借金を抱えることになります。その小村を救ったのが、時の外務大臣・陸奥宗光です。小村の語学力と粘り強さを見込んで、外交官に復帰させたのです。
その頃陸奥宗光は、幕末に結んだ不平等条約の改正に取り組んでおり、明治27(1894)年、大国イギリスを嚆矢として15カ国から、治外法権の撤廃を勝ち取りました。残った不平等条約は関税自主権です。その重責を小村に託したのです。小村は駐米公使、駐露公使、駐清公使などを経て、明治34(1901)年、外務大臣になります。大臣になっての最初の大きな仕事が、翌明治35(1902)年に締結した日英同盟でした。狙いは、ロシアの南下に対抗することでした。
外交官の心得は「ウソをつかぬこと」
日露の緊張は高まり、明治37(1904)年、ついに日露戦争の火蓋が切って落とされました。結果、ロシアに勝ったことは勝ちましたが、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介を得て、小村がなんとか講和締結に持ち込んだというのが実情でした。財政難で、日本はこれ以上戦争を続けられなかったのです。賠償金こそ取れなかったものの、ポーツマス条約では、南樺太の割譲や南満州鉄道の譲渡、韓国の実効支配など、大きな成果を上げました。その粘り強い交渉術は、仲介役のルーズベルトも舌を巻いたといわれます。
彼の交渉術はどのようなものだったのでしょうか? 彼は、外交官としての心得とは何かと問われ、「ウソをつかぬこと」と答えています。国家間での交渉も人と人との交渉ごと。何よりも相手から信頼を得ることが重要と考えていたのです。