なにせおたがい二重人格者
さて、私は近ごろ、著名な文芸評論家の某氏と毎週のように競馬を観戦している。
氏は同時に、著名な競馬評論家でもあるのだが、さきに述べた文筆業と競馬業との微妙な相関にいち早く気付いておられたらしく、徹頭徹尾の別人格者としてペンネームも使い分けておられる。おそらく同一人物であると知っている人は少いであろう。
私はかつて、氏とは同じ媒体の予想欄を担当していたので、その事実は知っていた。
複雑な関係である。私は競馬予想をしながら小説を発表し、氏は同様に競馬予想をしながら私の小説の書評を書いている。
ということは、いざ競馬場で席を並べると、いったいどういうスタンスで会話を交わしてよいものやらとまどう。なにせおたがい二重人格者なのである。
当然の儀礼として、たとえば新聞紙上に立派な書評を掲載していただいた翌日には、お世話様でしたの一言も言わねばならぬのであろうが、考えてみればものすごく無礼な気もする。おそらくあちらは、もっと面映(おもは)ゆい気持ちであろうと察せられる。
だったら何も仲良く観戦しなくても良さそうなものであるが、妙にウマが合ってしまい、何度かご一緒するうちに、早朝から指定席の列にしゃがみこむといういけない関係になってしまった。
競馬場での2人は、もちろん完全なる競馬オヤジである。太いの太くねえの、ヤリだのヤラズだの、やれ時計がどうの上がりがどうのと意見を交わし合い、コーヒーを啜(すす)り弁当を食い、ホーム・ストレッチの叩き合いに際しては「そっのままァー!」などと奇声を揃える。
服装はといえば、これもおたがいひとめで競馬オヤジとわかる身なりである。パドックの寒風に耐えうる防寒コートを着、双眼鏡を首から下げ、耳には赤ペンを挟んでいる。
そういう関係がしばらく続くうちに、作家と文芸評論家という相互の認識は消えた。
ところがそんなある日、氏の主催にかかるパーティーに招かれた。招待状の返送に際しては、一瞬とまどった。ハテ、いったいホテルのバンケット・ルームで、どういう挨拶をしたものかと思い悩んだのである。
まさか防寒コートに双眼鏡をぶら下げて行くわけにもいくまい。あちらもまさかそのなりではあるまい、と思う。
で、当日私は、防寒コートは着ずにフォーマル・スーツをバリッと着、双眼鏡はぶら下げずによそ行きのメガネをかけ、パドックでは常に火焔(かえん)太鼓のごとく逆立てている頭髪もムースでベットリと固めて会場へと赴いた。
ホーム・ストレッチならぬ都会の夜景を眼下に望む最上階の絨毯(じゅうたん)の上に磨き上げた革靴を一歩ふみ出したとたん、私はあせった。
受付の金屏風の前に、ダブルのスーツを着、メガネをかけかえ、頭髪をビシッとムースで固めた某氏が立っているではないか。
一瞬、ナゼあいつがここにいるのだと思った。氏もその瞬間、ナゼあいつがここに来たのだ、という顔をなさった。
「どうも先生。本日はお招きにあずかりまして」
「ようこそお越し下さいました、先生。お忙しいところ恐縮です」
会場で交わした言葉は、それだけである。
その週末、私たちは何ごともなく肩を並べて指定席の行列にしゃがみこみ、ヤリだヤラズだ、時計がちがうの上がりがどうのと囁き合った。まことにふしぎな関係である。
それにしても、馬番連勝8万8960円は快挙であった。このところ氏は中山、私は府中場外で、顔を合わせていないが、証拠の馬券は持っている。
「へっへっ、取っちまったよー」
「ほんとかよー」
明後日の朝の会話を想像して、私はひとりほくそ笑む。
(初出/週刊現代1996年4月6日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。