上皇陛下にとって、思い出の地である栃木県日光。先の大戦末期に学習院初等科の同級生らとともに疎開した記憶が、今も色濃く残っておられるのだろう。上皇ご夫妻にとって今回のご訪問(2024年5月28日~31日)は、実に23年ぶりとなった。これまでにも幾度となく計画されたものの、実現には至らなかった。さぞかし、日光市内は歓迎ムード一色に包まれているのかと思われたが、どうしたわけか、そこには静まりかえる街並みがあった。
沼津、東京、日光へ
戦争の末期、上皇陛下は、学習院初等科の生徒らとともに日光市内と奥日光に疎開された。美智子さまは、日光での疎開経験はないが、群馬県館林町(現・館林市)や長野県軽井沢町で疎開経験がおありになる。では、上皇陛下が日光へ疎開することになったいきさつは、どうだったのか。
1944(昭和19)年5月、学習院初等科の4年生から6年生の姿は「学習院沼津遊泳場(静岡県沼津市)」にあった。当時、皇太子であった上皇陛下(以下、明仁皇太子と記す)も学童疎開に同行し、沼津御用邸西附属邸に疎開していた。7月に入り、「絶対国防圏」といわれたサイパン島が陥落し、沼津沖にも米国の潜水艦が現れるようになった。明仁皇太子ら学童疎開していた生徒は早々に沼津を発ち、7月8日に東京へと舞い戻った。
戦局は急転し、サイパン島に基地を構えた米国は、日本本土への空襲を開始した。明仁皇太子も7月10日には日光へ再転地することになり、原宿にある皇室専用駅(通称:宮廷ホーム)から御召列車で、“極秘裏”のうちに日光へと向かった。
日光では、明仁皇太子が日光田母沢御用邸(にっこうたもざわごようてい)に、弟宮の義宮(よしのみや/現、常陸宮正仁親王殿下)が日光山内御用邸(にっこうさんないごようてい)に、それぞれお住まいになった。翌年の1945(昭和20)年7月になると、近隣の町へも空襲が行われるようになり、21日には奥日光の湯元(南間ホテル=現在は廃業)へと再び転地された。8月15日の玉音放送は、この奥日光の地でお聞きになった。戦争が終息したあとも日光での疎開生活は続き、10月29日になり、ようやく昭和天皇から帰京の許可(御内許)が出された。明仁皇太子と弟宮は11月7日、学習院の生徒らとともに御召列車に乗り込み、東京へと戻られたのだった。
控えられた事前公表
令和もすでに6年となり、生前退位された上皇陛下は90歳を迎えられ、上皇后美智子さまは89歳になられた。お二方の大変お元気なご様子を、喜ばしく思うのは言うまでもない。
これまでも、二重権威を避けるため公の場に姿を現すことを控えてこられた上皇ご夫妻。2024(令和6)年の「春の園遊会」にも、そのお姿はなかった。時折、私的なご旅行などで、そのお姿に接することを楽しみにしている人もおられることだろう。残念ながら、今回の日光ご訪問は、事前に宮内庁から発表されることはなかった。理由は明らかにされていないが、ご高齢の上皇ご夫妻を静かに見守っていただきたい、とする側近らの配慮があったのだろうか。
日光へ向かわれた日は、あいにくの雨模様だったこともあり、普段は観光客でごった返す東武鉄道の浅草駅前も静まり返っていた。目立ったのは、スーツ姿の警察関係者の姿だった。東武日光駅前も同様に、雨模様ゆえ観光客の姿はまばらで、上皇ご夫妻をお出迎えするという歓迎ムードは、どこにもなかった。駅前のガソリンスタンドの店主は、ご到着時間の寸前まで知らされてなかったと言い、土産物店の店員も事情を把握していない様子だった。ある地元の人は、「数日前に警察による警備訓練が行われていたが、いつお見えになるのかと聞いても、”答えられない”と冷たくあしらわれた」と話す。今までは事前に情報が伝わり、ご到着の様子をひと目見ることができたのに、今回はなぜそのような“塩対応”になってしまったのか。とはいえ、行く先々の歩道上には、カラーコーンで囲われた「奉迎場所」と呼ばれる“お出迎え場所”が用意されていたのだが。
念願の日光
平成の時代、天皇となられた上皇陛下が日光を訪れたのは、23年前の2001(平成13)年7月にまで遡る。実は、その前となる1996年(平成8)年6月にも美智子さまと紀宮さま(現・黒田清子さん)とともに訪れる予定だったが、上皇陛下が風邪をひかれたため中止となった。その後も、戦後70年の節目である2015(平成27)年、2016(平成28)年、2017(平成29)年と計画はされたものの、自然災害の被災者へ配慮した取りやめなど、中止を余儀なくされてきた。そして、今回ようやく念願が叶ってのご訪問となった。