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45年間信じ続けて来た宗旨を変えさせた「ある所有物」

さて、あろうことか3ヵ所のトイレがすべて洋式であると知って、私は激怒した。

ともかく1ヵ所は和式に変えよと要求したのであるが、それはたいそう手間と費用のかかることであった。

そうこう揉めるうちにも、便意は容赦なく兆してくる。いたしかたなく、当面はホテル式に、タンクを抱いて前向き蹲踞の姿勢を取るほかはなかった。

ところが、バブル系のトイレは私にその秘法さえも許してはくれなかった。TOTOの誇る世界最新鋭の「乾燥機付きウォシュレット」が採用されていたのである。

前向き蹲踞の脱糞をおえ、不用意にボタンを押したところ、突如として噴出した水が「ムーブ機能」とともに暴れ回り、トイレは猖獗(しょうけつ)をきわめた。

もちろん、そういう機能を知らなかったわけではない。しかし、たまのホテル住まいならいざ知らず、毎朝このようなキワモノと付き合わされるのではたまったものではない、と私は深く懊悩(おうのう)した。

論争になった。私は、日本の文化と伝統を心より愛し、シンプルかつプリミティヴな和式きんかくしこそ最善最高の便器であると主張した。

「それはちがいます」と、家人は冷ややかに否定した。何でも私の便法は、歴史に対する反動的行為に過ぎぬのだそうだ。

私は、信じて古(いにしえ)を好むタイプの人間ではあるが、案外と素直である。編集者の意見もよく聞く。

そこで、ゆるがせにできぬ文章にバッサリと赤ペンを入れられた感じで、ともかく考えてみることにした。

数日間、新たなる宗教の教義を覗き見るように、「ウォシュレット便座」を試してみたのである。

さまざまの利点に気付いた。

まず、トイレの前にパンツの姿脱ぎをしなくて良い。

気合いは入らぬが、そのぶんジックリと構えることができ、足がシビれることもない。

そして、これが最大の長所だと思ったのであるが、用便後の洗浄と乾燥は、すこぶる痔に良い。

筆は滑りに滑り、ヤバいと思いつつ露悪する。実は私、痔主である。売れぬ小説を文机(ふづくえ)で描き続けた結果、大痔主になった。しかし医者に通わねばならぬというほどではなく、仕事の無理が重なると発作的に痔主となるのである。

痔は痛い。発作中、便法により一気呵成に脱糞するときなど、「エイヤッ!」ではなく、「キエェ〜〜イ!」というような悲鳴を上げるほどである。しかるのち、ペーパーで拭うときの痛さと言ったら、今このとき地球が破滅すれば良いと思うほどである。

便器の実験中、折しも痔が出ていたことが、私の改宗を決定づけた。

かつて私は本稿において、「便座について」を書き、洋式便座をあしざまに罵っている。同意見の読者から、ファン・レターまでいただいた。

45年間も信じ続けてきた宗旨を今さら改めることは、もとより本意ではない。痔のせいにするのは、卑怯であると思う。

しかし、歴史に対する反動的行為とまで言われ、出先においてもその現実を確認せざるを得ぬ今日、私は耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、影絵を踏む。

こうして私は、45年間、信じて疑わなかった宗旨をついに改めた。

世界の一部が、明らかに変わった。

どう変わったのかと言うと、またまた筆の滑りにまかせて露悪するが、おごそかに聞いていただきたい。

寸暇(すんか)も惜しみ、トイレの中まで仕事を持ちこむようになったのである。洋式便座は仕事もできる。

この原稿、実はトイレで書きおえた。

(初出/週刊現代1997年3月8日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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