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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第120回は、「立身について」。

母校を混乱に陥れた「浅田次郎はOB」という噂

小春日和の1日、母校・中央大学付属杉並高等学校を訪ねた。昭和45年の卒業以来、27年ぶりのことであった。

不義理にもほどがあると思う。だが、なりふりかまわぬ文学三昧で、母校の敷居をまたげるような人生ではなかった。

恩師の方々と再会し、後輩たちの前で講演をさせていただいた。まこと面映(おもは)ゆい限りである。

在学中、私はたいそうイレギュラーな生徒であった。第2学年から転入し、級友たちはほぼ全員が中央大学に進んだにもかかわらず、私ひとりだけが卒業と同時にどこかへ消えた。以来、行方は杳(よう)として知れなかったのである。

昨年、「本校の卒業生の中に、アサダ・ジロウという作家がいるらしい」という噂が職員室を席巻したそうだ。第1報はOBからの通報であったらしいが、誰も「浅田次郎」という小説家など知らず、一時は「赤川次郎が実は本校の卒業生だった」という誤報を生じせしめ、全校がパニックに陥ったということである。

いかにも「質実剛健」をもって校風とするわが母校にふさわしい。

「浅田次郎」はもちろんペンネームである。情報が確定したのち、「浅田次郎とは誰か」という議論で職員会議は紛糾した。拙著のカバーや新聞広告、グラビア等に掲載されている「浅田次郎」の肖像と卒業アルバムの写真を照合し、いったいどいつだという「犯人捜し」に長い時間を費して下すったらしい。

正解は出なかったそうだ。無理からぬことではある。在学中、私はたわわな総髪をリーゼントに決めていたのであった。

ちなみに、わが母校は私が第5期生という、当時はたいへん新しい学校であった。したがって教員はほとんどが中央大学を卒業したばかりの若い方々であり、27年後の現在もそっくりそのまま教鞭を執っておられる。職員会議が紛糾した理由は、「誰もが知っているはず」だからである。

結局、出版社に問い合わせて正体が知れた。その瞬間、職員室がいっぺんにシラけたであろうことは想像に難くない。

私は入学も卒業もイレギュラーであったが、日ごろの生活態度はもっとイレギュラーであった。

アパートに独り暮らしをしており、適当な時間に登校し、適当な時間にさっさと下校した。アルバイトに精を出すかたわら、夜な夜な赤坂六本木界隈のディスコに出没し、きわめてアーバンかつゴージャスな高校生生活を過ごしていた。

正しくは私だけが突出していたわけではない。級友にはそういうイレギュラーな高校生が大勢おり、むしろ当時の「中杉生(ちゅうすぎ)」の客観的な典型であったと思う。ただし、母校の名誉のために言っておくと、私たちはみな学業をおろそかにはしなかった。良く遊び、良く働き、良く学んだ。「質実剛健」の校風の、実践的な精華であったと思う。

「中杉生」のこうしたふしぎな気質は、今も私の暮らしの根になっている。質実剛健かどうかは知らんが、夜な夜な銀座でウーロン茶を飲み倒し、週末には競馬場のスタンドで奇声を発し、編集者をハラハラさせるわりには締切をキッチリと守る。地下鉄の車内でブッ倒れて救急車に乗っても、やることだけはやる。

すっかり近代的に建て替えられた校舎の、昔と変わらぬヒマラヤ杉の枝を見上げて、感慨ひとしおであった。

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作家浅田次郎の種を植えてくれた教師たち...
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おとなの週末Web編集部 今井
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