「明治天皇の如き天子にならん」とした明仁上皇 穂積が終戦翌日に見たという明仁皇太子の「御日誌」の中に書かれた「明治天皇の如き天子にならん」との記述は、後に皇太子が「新日本の建設」と題してまとめた作文の中にも同様の表現が見…
画像ギャラリー79回目の終戦記念日を迎えた。そして、来年はいよいよ戦後80年の節目だ。これに先立ち、今年の5月末、共に疎開体験のある上皇夫妻(上皇さまと上皇后美智子さま)は、明仁上皇が戦時中に学習院初等科の同級生たちと疎開していた栃木県日光を23年ぶりに訪ね、日光田母沢御用邸記念公園や奥日光などに足を運ばれた。
79年前、終戦を告げる父・昭和天皇の玉音放送を、当時皇太子であった明仁上皇は、最後の疎開先である奥日光湯元にあった南間ホテル(現在は廃業)第二別館2階の和室(「御座所」)で聴くことになる。その南間ホテル第二別館は移築され、奥日光から南東へ約92km離れた栃木県益子町に現存する。
終戦の日、雑音で聞こえにくかったとされる玉音放送。11歳の若き皇太子だった上皇は、どのような思いで聴いていたのであろうか。
終戦直前に新設された明仁皇太子の教育を担う東宮大夫に起用された穂積重遠(しげとお)の『終戦戦後日記』(有斐閣、2012年)や皇太子と一緒に疎開生活を送った級友の回顧談、天皇時代の元側近の証言などから、終戦当時の上皇の心境を考察する。
「玉音放送」を聴いた若き皇太子
「御日誌を拝見す。昨日の項、重大事態を十分に御理解にて、将来明治天皇の如き天子にならんとの決意を示され、言上甲斐ありとひそかに喜ぶ」。この記述は、穂積重遠の『終戦戦後日記』に収録されている「東宮奉仕目録」の昭和20(1945)年8月16日付にある。
穂積は近代日本の実業家、渋沢栄一の初孫で、東京大学で民法を専攻した法学者。『終戦戦後日記』は、穂積の後輩にあたる東大法学部教授の大村敦志が、穂積の遺族の了解を得て、終戦前後の皇太子に対する教育の体制やその内容、穂積が戦後関わった民法改正などを記した、未発表の日記をまとめて発刊した貴重な資料だ。
初代の東宮大夫人事は、昭和20年8月7日、木戸幸一内大臣が昭和天皇に内奏(ないそう)し、「穂積とは重遠か、彼ならよし」との天皇の内諾を得て終戦5日前の10日に発令された。
明仁皇太子らが疎開していた奥日光湯元の南間ホテルに穂積ら一行が到着したのは13日。その2日後の8月15日付の日記に、穂積は、昭和天皇の終戦の詔書(玉音放送)を聴いた皇太子の様子にも触れ、「殿下にも深く御感銘の御様子なりしが、更に穂積より平和克復についての御深遠御仁慈の聖慮の程を平易に御説明申上ぐ。何卒一層御自重自愛遊ばされ、将来の皇国を御担いあるべき御徳と御学問と御体力を御大成あらんことこそ、殿下として最大の御孝行と存ずる旨を言上す。よく御納得ありし御模様にて御肯き遊ばさる」などと記されていた。
「明治天皇の如き天子にならん」とした明仁上皇
穂積が終戦翌日に見たという明仁皇太子の「御日誌」の中に書かれた「明治天皇の如き天子にならん」との記述は、後に皇太子が「新日本の建設」と題してまとめた作文の中にも同様の表現が見てとれることから、「新日本の建設」の作文の原文か、その一部の可能性がある。
しかし、「新日本の建設」の作文は、昭和天皇の侍従次長を務めた木下道雄の『側近日誌』(文藝春秋)などにしか記載がなく、12歳の皇太子自身が書いたものか、内容を疑問視する声もあった。
明仁皇太子が玉音放送を聴いたのは、「御座所」とよばれた皇太子専用の居間兼勉強室があった南間ホテル別館2階の和室で、当時としては高性能のラジオが置かれ、穂積や侍従、侍医ら側近10人ほどが同席した。
同級生たちは本館2階廊下の拡張機前に整列し、先生たちと一緒にラジオを聴いた。同級生たちの回顧談などによると、玉音放送は、絶えずガーガーと雑音が入り、聞き取りにくい天皇のお言葉であったが、級友の一人、橋本明(故人)は「懐かしいお声の響きであり、一人ひとりの胸に迫るものがあった」(『平成の天皇』)と述懐していた。
放送終了後、8月15日付日記に記載の通り、穂積が終戦の詔書の趣旨と背景事情を丁寧に説明し、皇太子を励ました。皇太子も日本が戦争に負けたことを理解し、その日の日誌に「明治天皇の如き天子にならん」との決意を記した。
皇太子側近ナンバーワンの東宮大夫に着任直後とはいえ、穂積の日記に記載された皇太子の決意の記述は事実であろう。しかし、この日記を最初に見た時、正直、驚いた。
平成21(2009)年の結婚50年の記者会見で、上皇は、明治憲法で最高権力者だった天皇と現憲法の象徴天皇を比べ、象徴天皇の方が「長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思う」と述べている。
また、在位中の終戦記念日のお言葉などからも、明治以降の三代の天皇による軍国化と敗戦に至る過程を、後継者として重く受け止め、先の大戦を反省の対象と位置付けていると感じていたからだ。
穂積の『終戦戦後日記』の記述に注目していた政治学者がいた。平成18(2006)年から9年間、天皇時代の私的相談役である宮内庁参与を務めた東大名誉教授(日本政治外交史)の三谷太一郎だ。
平成から令和への代替わりの2年前の取材ノートをみると、三谷は『終戦戦後日記』が刊行された頃に開かれた、ある会合で、この日記の存在と「明治天皇の如き…」の記述の有無について上皇に尋ねた。
「陛下はその日のことをよく覚えておられて『そうであったかもしれない』と否定されなかった。お側におられた美智子さまが『今とはだいぶお考えが違いますわねぇ』とおっしゃったことも記憶しているが、(日記の記述は)当時としてはナチュラルなお考えだったと私は受け止めました。終戦直後の時代、明治天皇による『五箇条の御誓文』は、和製版の民主主義と考えられていました。原点回帰のようなお考えだったのではないか」と取材メモにある。
奥日光にいた皇太子たちが帰京した翌年の昭和21(1946)年元旦、昭和天皇は「新日本建設に関する詔書」、いわゆる「人間宣言」で天皇の神格性を否定するが、冒頭には、明治元年の五箇条の御誓文の全文が掲げられた。
五箇条の御誓文とは、当時16歳だった明治天皇が天地の神々に誓う形式で発布された「広く会議を興し万機公論に決すべし」など、明治新政府の5つの基本方針である。いわば、聖徳太子の17条憲法にも通じるような日本の伝統に根付く日本型民主主義の一種であろう。
昭和52(1977)年夏の記者会見で、「陛下の希望で五箇条の御誓文を『人間宣言』に入れたのか」と尋ねられた昭和天皇は、「民主主義というものは、決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います」と語っている。
明治維新から今年で156年になるが、終戦を境に、戦後の期間(79年間)が、戦前(77年間)のそれを上回った。近代化・軍国化の出発点となった明治の終着点と、戦後日本の出発点となった終戦記念日。上皇は、明治以降の歴史を必ずしも否定しているわけではないが、特に戦争に突き進んだ満州事変以降の歴史に学ぶべきだと繰り返し語っていたのが印象的だった。
なぜ、あの戦争を防ぐことはできなかったのか。即位前から象徴天皇像のあり方を模索し、上皇后と一緒に戦没者慰霊の旅を全身全霊で続けてきた上皇。その原点は、79年前の8月15日にあったと思う。
旧南間ホテル第二別館と御座所は、昭和48(1973)年、栃木県益子町に移築・保存された。現在は、「ましこ悠和館」という名称で運営されている宿泊施設(5部屋)。宿泊者以外は入館料100円で、御座所や当時の資料を展示した「平和ギャラリー」が見学できる。戦争の記憶が薄らいでいく中、一度は訪ねてみたい場所である。(敬称略)
吉原康和
元東京新聞編集委員。1957年茨城県生まれ、立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、国土交通省、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年~2022年までは編集委員を務め、平成から令和の代替わりを中心に、通算8年間、宮内庁を担当。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わり─変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たち─明治国家の英霊創出─』(吉川弘文館)など。