宮内庁が伝承する有形無形の伝統文化の一つに、「古式馬術」というものがある。それは、「打毬(だきゅう)」や「母衣引(ほろひき)」と呼ばれるもので、どちらも奈良時代や平安時代から続いているものだ。宮内庁車馬課主馬(しゅめ)班では、これらの伝統ある古式馬術を絶やさないために、日々の鍛錬と継承が行われている。古式ゆかしい様式美を今に伝える「母衣引」とは、いったいどんなものなのだろうか。
母衣引のはじまり
多くの文献によれば、戦国武将の時代にはじまったとされるものの、その由縁には諸説ある。「母衣(ほろ)」とは、“鯉のぼり”のような形をした筒状の吹貫き(ふきぬき)のことで、戦場で騎馬武者が馬上から布を“たなびかせ”、矢や石などから身を護る道具の一つだったとする説もある。やがて鉄砲が伝来すると、母衣を目立つ色で着色して、“敵・味方の区別をするための武具”として、使われたこともあったようだ。
戦(いくさ)のなくなった江戸時代中期になると、諸大名が母衣の「様式美」を競わせる馬の催しを行うようになり、これが馬術としての「母衣引」のはじまりではないかと考えられている。
馬術としての母衣引
母衣引とは、母衣が地面と水平にたなびくように、人馬が一体となって行う馬術で、騎手は紋付き羽織袴で鞍上する。鞍(くら)は、大和鞍(やまとぐら)と呼ばれる和装のものだ。鞍上した騎手は畳んで抱えもった母衣を、馬のスピードを上げながら徐々に後方に引出し、地面と水平に長く“たなびかせる”のだが、これが簡単そうに見えて難しいのだという。馬が遅すぎると母衣が地面に接地してしまうし、早すぎても母衣の引き出しのタイミングが合わなくなるという。この微妙なバランスを“阿吽(あうん)の呼吸”で、人馬が一体のもとでなせる技なのだ。
馬の足並みにもヒミツが
母衣引のために調教された馬を「調子馬(ちょうしうま)」といい、生まれながらに「側対歩」ができる馬のことをいう。側対歩とは、前肢(まえあし)と後肢(うしろあし)とを同時に出す変則的な歩き方で、左の前肢と後肢、次に右の前肢と後肢と交互に出すことを繰り返しながら歩を進める。この歩き方の特徴は、馬のスピードがあがっても上下動が少なく、騎手は鞍の上で水平を保てる。よって母衣にも無駄な動きが伝わらないため、水平を保ちながら“たなびく”ことができるのだ。