命をとるか人の道をとるかという究極の選択
つまり、こういうことだ。
このところ毎日やってくるインタヴュアーが、必ず手みやげの甘味をお持ち下さるのである。本稿のせいか銀座の噂かは知らんが、酒が1滴も飲めずもっぱら甘いものばかりを好むという事実は、広く業界に知られているらしい。
いくら好きだからといっても甘いものを食べるには酒とちがって限度がある。毎日ひとつかふたつの菓子折が届けば、かなり頑張ってもそうそう消化しきれるものではない。しかもまずいことには、家人は本気のダイエット中、娘は体重が気になるお年頃、母は糖尿病である。家長としての責任は私が一身に負うことになる。
暑いさなかはるばる取材に来て下さるみなさんの心づくしの祝福を、よもや腐らせるわけにはいかない。このたびはおめでとうございます、さし出された菓子折を腐らせて捨てるぐらいなら、毒を食らって死ぬ方がよいと思う。
かくて私はこのところ、体重の激減にもかかわらず体脂肪が急増という、最悪の状態に陥っているのであった。しかし私にとって甘いものを食うか食わざるかは、いま命をとるか人の道をとるかという究極の選択なのである。
こんこんと説教をした後で、医者はこう付け加えた。
「それから、こういうやりとりをですね、面白おかしく週刊誌に書いたりしないで下さいよ。笑いごとじゃないんですから」
深夜1時。ただいまキッチンの一角にある「菓子置場」を覗いたところ、銀座コージーコーナーのフルーツケーキ詰め合わせ、及びマキシムのクッキーがあったので書斎に運んできた。
私が授賞式を明日に控えたいま、せつせつとこのようなエッセイを書く真意を、業界関係者のみなさまはどうか汲みとっていただきたい。
はっきり言って、煎餅(せんべい)が食いたい。
(初出/週刊現代1997年9月6日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。