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大正天皇のご利用は一度だけ

完成した宮廷ホームは、正式には「原宿駅側部乗降場」といい、駅舎の建物は「原宿駅北部本屋」と呼ぶ。なぜ「本屋?」と思われた方もいるだろうが、これは「ほんや」と読む。駅の「基“本”となる位置」にある「建“屋”(たてや)」のことを指す鉄道用語で、さらに「北部」と冠されているのは、山手線の原宿駅よりも「北側にある」ことを意味する。完成当時から関係者の間では、“原宿皇室駅”や“原宿宮廷駅”と呼ばれていたが、いつのころからか現在のように、「原宿駅宮廷ホーム」と通称で呼ばれるようになった。

大正天皇はその后であった貞明皇后とともに、この真新しい駅舎から1925(大正)14年12月に沼津御用邸へと向かわれる予定だった。しかし、その直前に大正天皇が脳貧血で卒倒したため、あえなく中止された。翌1926(大正15)年4月にも再度計画されたが、回復が思わしくなくこれも見送られた。

同年7月になり、8月から葉山御用邸でご静養されることが決まり、8月15日に貞明皇后とともに、はじめて原宿駅宮廷ホームを利用した。車椅子姿の大正天皇は、御料自動車から御召(おめし)列車へと車椅子のまま乗り換えられ、乗り込まれた。お召列車(御料車)の車内では、“隣接する明治神宮”の方角を列車が出発したあともしばらくの間、見つめていたという。これが大正天皇の鉄道旅として、最後の“片道きっぷ”になってしまった。

完成当時の姿を今に伝える原宿駅宮廷ホーム。目にとまる白い柵は、山手線原宿駅の改修工事で敷地の一部が資材置き場等に使用されているために設けられた“仮柵”である=2022(令和4)年4月17日、山手線原宿駅から写す(東京都渋谷区神宮前)

文・写真/工藤直通 くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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