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「寝台車」と聞くと、鉄道の”寝台特急ブルートレイン”を連想した方もいることだろう。けれども、ここでふれる寝台車とは、「霊柩車」のことである。皇室の葬儀には、古くから「轜車(じしゃ)」と呼ばれる牛が引く「牛車(ぎっしゃ)」が使われてきた。しかし、時代がクルマ社会となった現代では、儀式もさま変わりした。では、いつのころから牛車は使われなくなったのか、現代ではどのようなクルマが使われているのか。宮内庁が所有する“寝台車”のヒミツに迫ってみたい。

※トップ画像は、赤坂御用地南門を出る三笠宮寛仁親王のご遺体を乗せた「霊車」(トヨタ・センチュリーロイヤル寝台車)=2012(平成24)年6月14日

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古式ゆかしい葬儀

まだクルマのなかった時代の皇室の葬儀には、「轜車」と呼ばれた牛車や、「葱華輦(そうかれん)」と呼ぶ、人が担ぐ「輿(こし)」が、天皇の霊柩の移御(いぎょ)に使われてきた。牛車は、大正天皇の「大喪の礼」を最後に姿を消したが、葱華輦は昭和天皇のときも“古来儀式の伝承”として使用された。

牛車を用いた“轜車”の車輪は、動き出すと独特の”きしむ音”がしたそうで、その音は悲しみを表すような音色だったそうだ。牛が轜車を引くさまは、ゆっくりとした動きであり、昭和天皇の「大葬の礼」では「現代の交通事情にはそぐわない」として、その使用は見送られた。

皇族方の葬儀では、明治時代以降になると荷車(にぐるま)や馬車を改装したものを使用するようになった。皇室にクルマが導入された1913(大正2)年以降は、”病院型車室”と呼ばれた「寝台を備えた車体」をトラックに載せたものが導入されたが、これは皇族方の使用に限られた。その後、1922(大正11)年になるとアメリカ車の「ピアスアロウ・ツーリング」を改造した”特別車”と呼ばれた霊柩車も導入されたが、こちらについても、その使用は皇族の葬儀に限られ、明治天皇とその后である昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)、明治天皇の嫡母(ちゃくぼ)である英照皇太后(えいしょうこうたいごう)の葬儀には、クルマや馬車が使用されることはなかった。

大正天皇の葬儀「大葬の礼」で使用した、「轜車(じしゃ)」と呼ばれる霊柩を乗せる牛車(ぎっしゃ)=写真/宮内公文書館蔵

馬車との併用

クルマが導入されたあとも、”公式行事”は馬車という考えが根強く、皇族の本葬にあたる儀式でも自動車が使用されることはなかった。いっぽうで、1914(大正3)年の昭憲皇太后の霊柩移御では、轜車と葱華輦のほかに「霊柩馬車」も使われた。以降、大正天皇が1926(大正15)年12月25日に静養先の葉山御用邸(神奈川県葉山町)で亡くなられたときは、東京への移御に霊柩馬車を使用した。

1931(昭和6)年になると、クルマの”特別車(霊柩車)”も更新され、1930年式のアメリカ車「ピアスアロー」を改造した特別車が新たに導入された。このクルマは、1968(昭和43)年に、イギリス車「デムラー」(1953年式)を、特別車に改造するまで使用した。このデムラーは、上皇陛下がまだ皇太子だったとき、イギリスを訪問した際に購入したものだった。

1950年式のアメリカ車「ピアスアロー」を改造した“特別車”。車体は、改造した際に当時の国産自動車メーカー「日本自動車会社」が新造したものに載せ替えた=写真提供/宮内庁
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