将軍後継問題で、江戸城に乗り込む
当時幕府の間では将軍後継問題が起こっており、井伊直弼グループは徳川慶福(よしとみ)を推し、南紀派と呼ばれ、徳川斉昭グループは息子である一橋慶喜(よしのぶ)を推し、一橋派とされていました。
そして、第14代将軍に慶福が決まると井伊直弼は大老に就任し、日米修好通商条約を締結します。朝廷を無視したやり方に怒った斉昭は江戸城に乗り込みますが、無断登城のかどで逆に謹慎を命じられてしまいます。
水戸藩に下った前代未聞の密勅
ここから攘夷派の巻き返しが始まります。このままずるずる開国に進むことを憂えた尊皇攘夷派が朝廷に運動し、水戸藩に下った密勅を戊午の密勅といいます。
その中身は
(1)日米修好通商条約への呵責と説明の要求
(2)攘夷を推進するための幕政改革の命令
の2点でした。
将軍の臣下であるはずの水戸藩に勅書が渡されることは例がなく、蔑ろにされた幕府は権威が失墜しました。幕府の権威を取り戻すべく井伊直弼がとったのが安政の大獄です。そして斉昭もさらに重い永蟄居を命じられ、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された5カ月後、水戸で急逝してしまいます。