おとなの週末的クルマ考

見た目も乗り味もアメリカンマッスル!! 三菱スタリオンは三菱スポーツ4WDの元祖

スタリオンは三菱のスポーティカーでナンパ路線とは無縁の硬派カー

三菱スタリオンは1代限りで終わってしまいましたが、三菱にとっては非常に重要なモデルでした。このクルマがなければ三菱のWRCでの活躍はもう少し遅くなっていたかもしれません。

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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第30回目に取り上げるのは、三菱スタリオンだ。

ギャランΛの実質後継車

シャープなラインで構成された独特のデザインを採用したスタリオン

1980年代の三菱自動車(以下三菱)のフラッグシップスポーツカーが1982年にデビューしたスタリオンだ。三菱はコルトギャランGTO(1970~1978年)、ギャランクーペFTO(1971~1975年)、FTOの後継車であるランサーセレステ(1975~1982年)というスポーティカーを登場させ、スポーティイメージを確立していた。

そして1976年に登場して大ヒットしたギャランΛ(ラムダ)はGTOの実質後継車で、今回紹介するスタリオンはギャランΣ(シグマ)、Λのコンポーネントを使って誕生したスポーティカーだ。一部併売したが、立ち位置としてはΛの後継的モデルでもある。

三菱初のスポーティカーのコルトギャランGTOの最強グレードがMRだ

クライスラーとの関係

スタリオンの誕生を前に当時の三菱の状況を説明しておこう。1980年代に入って日本の自動車メーカーは、当時世界最大の自動車マーケットと言われ長きにわたり自動車王国に君臨したアメリカマーケットを重視するようになった。アメリカで売れることが繁栄につながる、という考えだ。国内だけでは厳しく、アメリカでの成功が必須だった。

リトラクタブルヘッドランプは角型を採用。日本車での採用はかなり早い部類となる

日本の自動車メーカーの対アメリカということを考えると、当時は三菱が最も進んでいて、1970年にアメリカのビッグスリーのひとつであるクライスラーと提携し、OEM供給するなど着実に成果を挙げていた。ギャランΛはスコーピオンの車名で北米に輸出されると同時に、クライスラーにOEM供給され、ダッジチャレンジャー、プリムスサッポロとして北米で販売されていた。

今回紹介するスタリオンも日本専売ではなく、クライスラーへのOEM供給することを前提として開発された。裏を返せば、日本マーケット専売では成立しなかったクルマと言えるかもしれない。スタリオンは日本では1982年にデビューしているが、その後OEM供給されて1985年クライスラーブランのダッジコンクエスト、プリムスコンクエストとして販売された。

プリムスコンクエストはリアのルーバーなどでスタリオンと差別化

ガンダム系デザインの元祖

スタリオンは、エッジの効いたボディライン、スラントしたノーズにリトラクタブルヘッドライトを備えた3ドアハッチバッククーペとして登場。1980年代に入ってリトラクタブルヘッドライト装着のクルマが増えて一大トレンドとなるが、スタリオンは2代目トヨタセリカXX同様にトレンドを先取りしたクルマの一台だった。

コテコテしたデザインはガンダム系と言われるがそその元祖

コテコテとしたデザインのクルマはガンダムチックと称されることがあるが、その元祖となるのがスタリオンだ。ガンダムチックと称されたのは日本で初だったと思う。スタリオンのデザインは、前述のセリカXXのように洗練されてはいないが、シャープなエッジを多用し、マッチョさも持ち合わせた独特のデザインに仕上げられていた。日本車っぽくなくどことなくアメリカンな雰囲気を持っているのは、クライスラーとの関係も大きく影響している。スタリオンのデザインが賛否あるのはこのためでもある。熱狂的に好きな人がいる一方で、そうでない人にはまったく刺さらなかった。

あと、初代トヨタソアラ、2代目セリカXX、スタリオンより数カ月後に登場した2代目プレリュードに比べて武骨なこともあり、彼女とデートするのに使うのではなく一人で黙々と乗る硬派なクルマというイメージもあった。

太いBピラー、スラント下ノーズ、変形ひし形のウィンドウなどデザインは凝っている

ターボの三菱

日本の自動車界では、1979年にセドリック/グロリアに2Lターボエンジンを搭載したことによりターボブームが勃発。過給エンジンによりハイパワー化が顕著になり、各メーカーとも追従して、ターボが大きなセールスポイントとなっていた。

そのターボに最もご執心だったのが三菱で、ランサーEXに1.8Lターボを搭載したのを皮切りに、続々とターボエンジンを登場させた。

三菱と言えば三菱重工が日本で初めてターボ搭載の飛行機を登場させていたこともあり、『ターボの三菱』を大々的にアピールしてフルラインターボ化にまっしぐら。1.4L、1.6L、1.8L、2L、2.3Lディーゼルターボ、軽自動車用の550ccのターボエンジンを設定していたほどだ。

スタリオンの進化=エンジンの進化で、最終的には2.6Lターボを搭載

三菱ターボ戦略のフラッグシップ

三菱のフルラインターボのフラッグシップがスタリオンで、2Lのインタークーラーなしのターボが搭載された。エンジン自体はギャランΛに搭載されていたものでスペックは最高出力140ps(グロス)、最大トルク22.0kgmだった。スポーティカーながら、排ガス規制などを乗り越えた時代だったこともあり、高性能と低燃費がアピールポイントだった。

当時の三菱のエンジンは天体にちなんだ愛称が付けられていた。オリオン、サターン、バルカン、アストロン、ネプチューンなどがあり、スタリオンに搭載されたG63型の2Lエンジンの愛称はシリウス。エンジンに天体の愛称を付けるとは、なんてロマンチックなんだろうと思う。

三菱のターボモデルのフラッグシップとして進化を続けた

4ATのほうが人気

この2LターボエンジンのほかにはノンターボのNAエンジンも設定されていたが、人気はハイパワーのターボ搭載モデル。駆動方式はFRで、スタリオンは三菱が手掛けた最後のFR車ということになる。

トランスミッションは5MTと4ATがラインナップされていたが、人気だったのは4AT。当時のスポーティカーは5MTで乗るのが当たり前だったが、スタリオンはスポーティカーではあるがゴリゴリのスポーツカーではなく、スペシャルティ性のあるGT的なキャラクターだったことも影響していると思われる。

写真は5MTだが、人気は4ATだった。決してデザインにこだわったインテリアではないが、メーターパネルの造形にこだわりを見せる

レアなスポーティカー

スタリオンは1982年にデビューして、1990年まで販売されたが販売面では成功することができなかった。筆者で言えば高校、大学時代ということになるが、スポーティカーが最も売れた時代でもあるが街中で目にすることはあまりなくレアな存在。ただ人気モデルが街中に溢れるなか、少数派ということが非常に目立つ要因になっていた。個人的にはスタリオン=シルバーのボディカラーのイメージが強い。シルバーに三菱の赤いスリーダイヤのエンブレムが映えていたが、欲しいと思うクルマではなかった。

ほかのクーペと同様にリアシートは大人が座るには少々厳しい

地道な進化を続けたスタリオン

スタリオンはその後細かな進化を遂げるが、フルラインターボ戦略に邁進していた三菱の技術力は高く、1983年に2Lターボエンジンは175ps(グロス)にパワーアップ。デビュー時は1気筒あたり2バルブだったが、3バルブ化され、日本車初となる空冷インタークーラーを装着していた。

このエンジンは200ps(グロス)までパワーアップさせ、地道な進化を遂げた。そしてこのエンジンにワイドボディを組み合わせたGSR-VRを50台限定で販売。このスペシャルモデルは限定数が少なかったこともありあっという間に売り切れ、若干数の増産をしたと記憶している。日本車は全幅1700mm以下の5ナンバーサイズが当たり前の時代に、前後のフェンダーを大きく膨らませ全幅を1745mmまで拡大!! 今でこそ日本車も全幅1800mm前後のモデルが増えているが、当時はクラウン、セドリック/グロリアでさえ全幅1685mmを死守していたのだから、その迫力たるや凄かった。

あと、GSR-VRでは日本車で初めて50タイヤが認可されたのも特筆事項だろう。今では50タイヤなんて当たり前だが、その先鞭をつけたのだ。

ブリスターフェンダーにより迫力を増したスタリオン。この武骨なまでの迫力はほかの日本のスポーティカーと一線を画していた

限定からカタログモデルへ!!

後付けでフェンダーを膨らませるのをオーバーフェンダー(通称オバフェン)と呼ぶが、ボディと一体にフェンダーを膨らませるのがブリスターフェンダーだ。スタリオンで『ブリスターフェンダー』という言葉を覚えた若者は多かったはずで、筆者もそのひとりだった。

スタリオンGSR-VRは片側30mmフェンダーが拡幅されているのだが、たった30mmと侮るなかれ、その迫力、カッコよさは異彩を放っていた。

このワイドボディのスタリオンは、1988年にカタログモデルとして再登場した。限定モデルだったGSR-VRのエンジンが2Lだったのに対し、2.6Lに排気量アップし車名もスタリオン2600GSR-VRと命名された。この2.6Lエンジンは前述のダッジコンクエストに搭載されていたエンジンで、以降はワングレードに集約された。

スタリオンは日本での販売が振るわなかったこともあり、多彩なバリエーションを設定するにはコストがかかるため、コストダウンのために1モデルとしたようだ。

スタリオンのリアビューは比較的オーソドックス

低中速の加速感が凄い!!

2.6Lの排気量を活かしたトルクは強烈で、2Lとの加速は別レベル。スタリオンは北米向けがメインだったため、エンジン特性も低中速トルクを太くして、発進加速、クルージング時の燃費性能向上を狙っていた。当時はパワー至上主義で、上までどれだけ回るか、気持ちいいかが評価軸となっていたため、この点でスタリオンは不利となった。見た目以上に乗るとアメ車的だったのだ。

ただ、この三菱の低中速トルクを重視するというクルマ作りは、その後もアイデンティティとして継続され、1990年代に入ってから大きく評価されることになる。その意味では、スタリオンは悲運だったのかもしれない。

太いトルクが低中速からモリモリと盛り上がり、その加速感は強烈だった!!

モータースポーツで活躍

スタリオンの特筆点としてはモータースポーツでの活躍は無視できない。スタリオンは国内外のラリーで活躍したほか、アメリカでは耐久レース、日本国内ではツーリングカーレースに投入され活躍。

特に当時大人気だったグループA規定の1985年の全日本ツーリングカー選手権の『インターテック』でデビューして以来、1988年に撤退するまで3勝を挙げるにとどまったが、いくつもの名勝負を演じた。

悲運のマシン

三菱は1981年代に入って国際ラリーフィールドに復帰。WRC参戦マシンはランサーEXターボだったが、三菱ワークスの次期WRCマシンとして開発が進められたのがスタリオンターボだった。

1980年にWRCに投入されたアウディクワトロによってWRCは4WDが大きなトレンドとして注目されていた。そんなこともあり、市販モデルはFRながらスタリオンは4WDの開発が積極的に行われていた。

実際にスタリオンをベースとしたグループBマシンが開発され、三菱はスタリオン4WDラリーを正式に公開してWRCの実戦に投入されるのは時間の問題となっていたが、あまりにも速くなりすぎたマシンによって死亡事故が多発したことを受け1986年限りでWRCはグループBが廃止となってしまった。スタリオン4WDラリーはフランスのミルピステラリー、香港北京ラリーなど数戦の海外ラリーに参戦したが、WRCには実戦投入されなかった悲運のマシン。

スタリオン4WDラリーはリトラクタブルではなく固定式の丸4灯ヘッドライトを採用

ランエボシリーズの礎

スタリオン4WDラリーは、WRCに投入されなかったため幻のグループBマシンに終わってしまったが、スタリオン4WDラリーで培った技術が、後の登場するギャランVR-4、ランサーエボリューションシリーズへと受け継がれていった。

競技にも投入されず、市販モデルのスタリオンにも4WDは設定されなかったが、間違いなくランエボシリーズの礎と言える。

三菱の実用4WDの元祖がジープ→パジェロの流れにあるとすれば、スポーツ4WDの元祖は間違いなくスタリオンということになるだろう。

その意味でスタリオンは販売面では直接三菱というメーカーに大きく貢献はできなかったかもしれないが、非常に重要なモデルだったのだ。

スタリオン4WDラリーで開発された技術がギャランVR-4、ランエボシリーズで花開く!!

【三菱スタリオン2000ターボGSR-III主要諸元】
全長4400×全幅1685×全高1320mm
ホイールベース:2435mm
車両重量:1230kg
エンジン:1997cc、直列4気筒SOHCターボ
最高出力:140ps/5500rpm
最大トルク:22.0kgm/3000rpm
価格:235万5000円(4MT)

今見ても個性的なスタリオン

【豆知識】
ギャランとしては3代目となるΣ(シグマ)とコンポーネントを共用。Σが4ドアセダンだったのに対しΛ(ラムダ)は2ドアスペシャルティクーペ。スラントノーズに日本車初となる角4灯ヘッドライトを装備。スッキリとしたデザインで大ヒットとなった。車名のΛは英語のLに匹敵する文字で、ラグジュアリー(Luxury)の意味が込められている。初代は1976~1980年、2代目は1980~1984年の2代限りで消滅。販売店違いによるエテルナΛも存在する。クライスラーブランドではダッジチャレンジャー、プリムスサッポロとして販売された。

スラントノーズ+角4灯ヘッドライトが特徴的な初代ギャランΛ

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/MITSUBISHI、ベストカー

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