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東京モーターショーでコンセプトカーを発表

前述のとおり、初代プレーリーは販売面で成功はしなかったが、日産は乗用車ベースの多人数乗車モデルというコンセプトに可能性を感じていた。そのためプレーリーは単発で終わることなく次期モデルが開発されていた。そして1988年9月にフルモデルチェンジを受けて2代目がデビュー。

DURA CONCEPTは2代目プレーリーのデザインコンセプト

日産は東京モーターショー1987にいろいろな注目のコンセプトカーを公開。日産ブースの超目玉はミドシップ4WDスポーツのMID4IIだったが、エアロフォルムを纏った『JURA CONCEPT』も公開。このJURA CONCEPTは、エアロダイナミクスにこだわったモノフォルムにスライドドアを装備した2列シートモデルで3列シートモデルのプレーリーとは違ったが、このデザインこそ2代目プレーリーを示唆するモデルと言われていた。

東京モーターショー1987では斬新なス―ペース、エクステリアが注目された

コンセプトは踏襲するもデザイン一新

日産は2代目プレーリーを登場させるにあたり、徹底的に初代のネガを潰してきた。その最大のポイントが酷評されたエクステリアデザインの改良だ。実際に登場した2代目プレーリーは、当然JURA CONCEPTのままとはいかないまでも、丸みを帯びた新しさを前面に打ち出して登場。

クルマ雑誌の『ベストカー』でも、「これほど劇的に魅力アップしたクルマも珍しい」と高い評価を与えていた。当時としては確実に新しかった!! 

初代とは対照的にエアロフォルムで登場した2代目プレーリー

不格好だった初代から2代目で美しく生まれ変わったプレーリーを、幼鳥時代に醜かった白鳥の子どもが、輝くばかりに美しい白鳥となるというアンデルセン童話の『みにくいアヒルの子』になぞらえて、『アンデルセン型フルモデルチェンジ』と称されたりもしていた。

すでにアメリカではミニバンという言葉が誕生し、人気モデルとなっていたが、2代目プレーリーについて日産はミニバンという言葉は使わず、あくまでもセダンの延長で、多人数が乗れるセダンとしてアピールしていた。初代同様に2列シートの5人乗り仕様もラインナップしていたが、あくまでも主役は3列シートモデルで変わりなし。

インパネも乗用車的で使いやすさも兼ね備えていた

ボディ剛性も確保

それからユーザーをがっかりさせていたボディ剛性のなさについても、ピラーレスというコンセプトを初代から踏襲しながらも大幅な補強を施し、『グニャグニャボディ』の汚名を返上。

実は1990年に筆者は『ベストカー』でアルバイトを始めたのだが、その時の社用車として2代目プレーリーが使われていて、その時に初めて運転した思い出深いクルマ。初代は素人でもボディ剛性のなさがわかる、と言われていたようだが、2代目はおおむね不満のないレベルだったと思う。

この角度から見るとワンモーションフォルムがよくわかる
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この記事のライター

市原 信幸
市原 信幸

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