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初代&2代目の存在意義は大きい

そのプレーリーだが、EVの貢献度とは裏腹に迷走を続けたのは皮肉なもので、プレーリージョイの後は、3代目として1998年に登場したモデルはプレーリーリバティとサブネームを変更。そして2001年のマイナーチェンジでは車名からプレーリーの名が消えててリバティとなり、プレーリーの車名が消滅してしまった。2004年にはラフェスタとなった。

販売面では日産の思惑どおりにはいかなかったが、多人数乗車モデルのノウハウ、電気自動車のノウハウ、技術研究の礎などなど、初代&2代目プレーリーの存在意義は大きい。

プレーリーリバティからリバティとなりプレーリーの車名が消滅

【2代目日産プレーリーJ7 ATTESA主要諸元】
全長4350×全幅1690×全高1650mm
ホイールベース:2595mm
車両重量:1350kg
エンジン:1973cc、直列4気筒SOHC
最高出力:91ps/5200rpm
最大トルク:14.8kgm/2800rpm
価格:199万7000円(4AT)

【豆知識】
三菱自動車が1983年に登場させた3列シートミニバン。小型車のトレディアをベースとしている。小さなボディに広いスペースを確保というのがセールスポイント。1977年に開発が始まったというから、新たなジャンルのクルマを登場させるに当たり時間をかけていたことがわかる。市販化を前に三菱は1979年に開催された東京モーターショーでは、SSW(スーパースペースワゴン)というコンセプトカーを登場。初代は1983~1991年まで販売され、三菱のフルラインターボ戦略により1988年には1.8Lターボが追加され、ライバルであるプレーリーに差をつけた。

角ばったデザインは初代プレーリーと同じだが、デザインはシャリオのほうが洗練されていた

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/NISSAN、MITSUBISHI、ベストカー

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市原 信幸
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