松平定知の「一城一話55の物語」

“タワマン”の日本初の住人は織田信長だった? 安土城の「天守」ではなく「天主」で暮らした偉大な権力者の野望

安土城 (「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、織田信長と安土城です。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、織田信長と安土城です。

3年の歳月をかけ、1579年に完成

安土城はひと昔前まで、あまりわからない城でしたが、滋賀県安土城郭調査研究所が、1989年度から20年計画の調査・整備事業を進めた結果、少しずつ、その偉容がわかってきました。築城は信長が武田勝頼を破った長篠の合戦の翌年、天正4(1576)年に始まり、天正7(1579)年に完成したといわれます。普請奉行は重臣・丹羽長秀です。

安土城は標高199mの安土山に築かれ、高さ46m地上6階地下1階で、当時世界最大の木造建築であったろうと思われます。今でいうスカイツリー級のランドマークでしょう。また基礎は総石垣で作られています。

石工の職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」が作ったといわれますが、全国の石工たちが結集した、ともいわれています。また、瓦は明から招いた一観が焼いたとされ、蒔絵の技術を応用した金箔が貼られていたといいます。

安土山から琵琶湖を望む Photo by Adobe Stock

見せるための城

さて、その調査で最大の発見が、安土城の大手道です。幅6m、側溝をふくめると8mという幅の広い石段が、180mにもわたって直線的に続いています。

一般に城の建設は「攻められにくく、守りやすい」が原則です。それが幅8mの道が180mにわたって直線的に続く……。こんなことはそれまではありえないことでした。安土城が戦うための城ではなく、見せるための城といわれるゆえんです。

安土城址 Photo by Adobe Stock

「天下布武」を宣言した信長の権力

とはいうものの、「天主」近くの黒金門には、万一に備えて直角に2つに折れた石垣が組まれており、城内の兵士が敵を迎え撃つ「タマリ」もあり、キチンと防御も考えた作りにはなっています。「見せるための城」で、いったい何を見せるのか?

それは、自分の威信を天下に対して見せるのです。「天下布武」を宣言した信長の権力です。その象徴が安土城だったのです。

安土城の黒金門跡 Photo by Adobe Stock

「天守」とはいわず「天主」

大手道はなぜそんなに広いのかというと、天皇が安土城に来られることを想定していたからです。京都の時代祭でご覧になったことがあるかもしれませんが、天皇の行幸は、鳳輦(ほうれん)という大きな御輿でお越しになるわけです。そのための大きな道だったわけです。天皇をお迎えする本丸は、信長の起居する天主よりも下にあり、天皇を見下ろすことにもなります。

信長は天主で起居し政務を取り仕切っていました。天守とはいわず天主といいます。日本初の“マンション”(高層住宅)の住人は、間違いなく信長でした。家族も本丸付近で生活したほか、秀吉や前田利家などの住居は城下ではなく、天主に通じる道の入ってすぐの左右にありました(利家のほうは疑う声もありますが)。なお、彼らの城の出入りは「大手道」ではなく、裏側の「搦め手道」でした。

安土城の天主跡 Photo by Adobe Stock

必ず俺様を拝め

安土城の天主は特殊です。ほかの城の天守には見られない特徴がたくさんあります。例えば「吹き抜け様式」もそのひとつです。これは宣教師からヨーロッパの建築物を見聞きし、参考にしたのだと思われます。また城内にそう見寺(※そうけんじ、「そう」は本来漢字で、「總」の糸編ではなく手偏)というお寺がありました。

天主台の南西、百百橋(どどばし)口という入り口があり、用事のある人は皆ここから城内へ入ります。つまり城への通り道がそのまま境内になっています。

当時日本に来ていたポルトガルのイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによれば、そう見寺には「盆山」という石が置かれ、自身のご神体としたそうです。つまり、城下町から城に行くものは、必ず俺様を拝めということなんです。城郭内に伽藍のある寺院があるのは安土城だけです。

安土城天主台跡の案内板 Photo by Adobe Stock

復元された天主も絢爛豪華

安土城の天主5、6階は復元され、近くの「安土城天主 信長の館」に展示保存されています。金碧の障壁画は狩野永徳の手によるものといわれますが、復元された天主も絢爛豪華で、思わず息を呑みます。信長には、日本の宗教や思想をひとつにして、己がその上に君臨するといった思想があったのでしょう。

安土城で注目すべきはその立地です。干拓が進んだ現在ではうかがい知れませんが、信長の頃は琵琶湖に接していて、舟を使って様々なところへ向かうことができました。京にも舟ならすぐでした。さらにここは中山道が通り、かつての拠点岐阜にも近く、北国にも睨みが利く場所です。信長は安土城下で楽市・楽座を開きますが、いろいろなものが集まってくる物流の拠点だったわけです。

安土城址 Photo by Adobe Stock

天主と本丸、焼失させた“犯人”は?

そんな栄華を誇った安土城も、天正10(1582)年、京都本能寺で明智光秀の謀反に遭って信長が横死するや、山崎の合戦の後、天主と本丸が焼失してしまいます。なんともったいないことか。その犯人は、大きく分けて4説あります。

(1)落雷による焼失説(2)野盗による放火説(3)明智光秀の重臣である明智秀満が本能寺襲撃の後、安土城に入り火を放ったという説(4)明智秀満は放火せず、城で自刃した後、城に入った信長の次男信雄が、明智の残党におびえ放火してしまった説です。私はどうも(4)のような気がします。織田信雄という人は、小牧・長久手の戦いの有様を見ても、判断がぶれる人でした。戦国武将のなかでも人気のない人ですが、安土城を焼失させたのも、「彼ならなあ」と思う人たちが作った話なのかもしれません。

バチカンに行ったが、発見できず

歴史は面白いもので、期待された長男の信忠は本能寺の変で死に、三男の信孝も賤ヶ岳の戦いで柴田勝家につき自害させられてしまいますが、信雄は日和見で関ヶ原の合戦、大坂の陣を生き抜き、寛永6(1630)年まで73歳の天寿を全うしています。

安土城の天主や城下を描いた屏風があると、ルイス・フロイスの『日本史』には書かれています。屏風はヴァリニャーノという宣教師に贈られ、ローマ法王庁が保管したことがわかっており、滋賀県の調査団がバチカンに調査に行きましたが、発見できませんでした。

安土城址 Photo by Adobe Stock

【安土城】
織田信長が天正4(1576)年、丹羽長秀に命じて3年の月日をかけて完成した。1582年、本能寺の変の後に焼失したため、謎が多く、1989年から20年かけた滋賀県の調査で様々なことがようやく明らかになったが、天主の形など姿など解明されていないことも多い。安土城址はそう見寺の所有地となる。
入山料:大人700円、小人200円(高校生以下)
拝観時間:8時30分~17時
年中無休
城址下に無料駐車場あり
住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6371
電話:0748-46-6594

安土城屏風絵
信長がイエズス会巡察師のヴァリニャーノに贈った屏風絵(作者は狩野永徳とも)の複製。この絵は天正遣欧使節団の4人の少年とともに海を渡り、ローマ法王・グレゴリオ13世に献上され、その後行方不明になったとされる。

【織田信長】
おだ・のぶなが。1534~1582年。1560年、桶狭間の戦いで今川義元を破り、美濃の斎藤氏も攻略。足利義昭を擁して上洛し、朝廷の権威を弱体化させ、後に義昭を追放して室町幕府を倒した。武田勝頼を長篠の合戦で打ち破り、毛利を攻め、天下統一にあと一歩のところで、明智光秀の謀反に遭う。楽市楽座を推し進めるなど合理主義者として知られ、日本史上最も偉大な人物のひとりに数えられる。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。

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