2億円を超える売り上げのなかで卒業も決断
私も事業計画をつくってはいたものの、正直どのくらいお客さまが来るかは、「オープンしてみないとわからない」という心境でした。河原さんも決断はしたものの、「正直、お客さまはそんなに来ない」と、思っていたようです。そのため、河原さんはオープンする新横浜ラーメン博物館に一番弟子の中坪正勝さんを連れて行き、現地でアルバイトを募集し、1週間くらいで福岡に帰るつもりだったようです。
しかし、オープンすると想定をはるかに超えるお客さまがやって来ました。当時の「一風堂」のラーメンは27時間くらいかけてスープをとっていたので、あっという間にスープがなくなり、お店を一時休業して、閉館後もずっとスープをとり、またなくなったら、再び店を一時休業するという日々がずっと続きました。そんな状況でしたので、河原さんはホテルにすら帰れず、ラー博館内で仮眠をとる日々でした。
結局、福岡に帰れたのは半年後。「せっかく警備会社の保安システムに入ったのに、最初の半年間は施錠する日すらありませんでした(笑)」とは、河原さんの述懐です。そんな「一風堂」も2001年6月にラー博を卒業しました。
このとき、11坪の店舗で、年間2億5000万円の売上があったにもかかわらず、河原さんは、「俺が店舗展開すると、岩岡(館長の私のこと)に迷惑をかけるから卒業する」と、言ってくれたのです。河原さんにとっても大きな決断の一つだったと思いますが、その後の活躍は皆さんご存じのとおりです。