改良版のP2も市販されず
童夢-零の市販を断念した童夢&林氏だったが、日本でのナンバー取得を諦め、童夢USAを設立してアメリカでのナンバー取得を目指した。
このP2は童夢-零に手を加えて変更されたモデルで、外観上はアメリカの法規に合わせて5マイルバンパーを装着。法規とは言えあまりカッコいいものではないが、フェラーリ308なども北米仕様は5マイルバンパーによって出っ歯になっているのと同じだ。
そのほかでは、ヘッドライトの高さの規定により童夢-零よりも高くなっている点が挙げられる。ボディデザインは童夢-零を踏襲しているが、リデザインされている。
このP2は最終試作車がマスコミ向けに試乗会が開催され、日本初のスーパーカーへの評価が高かった。アラを探せばいくらでもあったようだが、まずは作ったこと、市販レベルにまで仕上げたことに最大限の賛辞が送られていた。童夢としては実際にすぐにでも市販できる状態に仕上げていたが、資金難のため市販されなかった。
童夢-零により童夢がレース界に参入
童夢-零からP2へと変貌を遂げた童夢の和製スーパーカーは市販化されなかったが、童夢は零のプラモデル、ミニカー、玩具類などの版権等によりかなりの収入を得た、と林氏も語っていて、それによりレースビジネスを再開。
1979年にはZERO RLというマシンを製作してル・マン24時間レースに初参戦を果たした。レースを断念して童夢-零を作り、それによってまたレースに回帰した。
2013年に大阪オートメッセで一般公開
筆者にとって憧れだけで幻の存在だった童夢-零だが、2013年に自動車雑誌『ベストカー』が大阪オートメッセにブースを出展するにあたり、当時の伝説の編集長から、「大阪オートメッセのベストカーブースの目玉として童夢-零を展示したいので交渉せよ」との匿名を受けたのが筆者だった。
ダメもとで童夢に電話をしたところ、快く貸し出しOKをいただき、晴れて2013年の大阪オートメッセのベストカーブースに展示することができた。車両の搬入時から注目を集め、人だかりができるほどだった。
もちろん、筆者もその時に童夢-零を始めて見たのだが、そのオーラに圧倒された。そこでは、発表時のことを知る人、まったく知らない若い世代とも大変喜んでいただけたのをイベントの3日間、見守って幸せな時を過ごさせてもらった。幻の和製スーパーカーの童夢-零は現在も童夢のミュージアムに所蔵されている。チャンスがあれば再会したい。
【童夢-零主要諸元】
全長3980×全幅1770×全高980mm
ホイールベース:2400mm
車両重量:920kg
エンジン:2753cc、直6SOHC
最高出力:145ps/5200rpm
最大トルク:23.0kgm/4000rpm
価格:市販されず
【豆知識】
スーパーカーブームでナンバーワン人気はランボルギーニカウンタック。そう兵器をなしたのがフェラーリ512BBだったが、シザーズドアに代表されるマルチェロ・ガンディーニがデザインしたエキゾチックなエクステリアで他の追従を許さない人気モデルとなった。スーパーカーブーム時にはLP400、LP500、LP500Sと進化させ、フェラーリ512BBとのカタログ上の最高速争いは激化。1974年のデビューから1990年まで26年間生産された。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/童夢、LAMBORGHINI、FERRARI、NISSAN、ベストカー