開業時は今の場所ではなかった
原宿駅は、開業した1906(明治39)年から1924(大正13)年までの18年間、今の新駅舎がある位置より300mほど代々木駅寄り(原宿外苑中学校西交差点付近)の場所にあった。開業当時の山手線は、今のように線路が4線(山手線の外回り・内回りと埼京線などが通る貨物線の上下線)ではなく、山手線の2線しかなかった。この当時の山手線は、現在の貨物線と同じ場所を走っており、今の山手線が走る線路(外回りと内回り)のある場所(土地)は、まだ御料地(明治神宮造営予定地)の敷地だった。
葬場殿仮停車場までの支線建設は、当時の原宿駅の渋谷寄りから線路を分岐させて、現在の明治神宮の境内を通って代々木公園内にあった葬場殿まで開通させた。もちろん、3日間しか支線の線路は使用しなかったわけだが、昭憲皇太后の御霊柩列車を走らせたのだから、それ相応の造りになっていたのだろう。御霊柩列車は、葬場殿駅を発車すると支線を通り、旧原宿駅でスイッチバックして品川駅方向へと進み、京都(桃山仮停車場)へと向かった。
明治神宮の創設
明治神宮はなぜ、原宿の地にあるのか。そんな疑問を抱くことなく、ここ原宿の地にあるのが当たり前として認識されているのが明治神宮である。そもそも神宮としてお祀りすることになった理由は、何だったのか。なぜ原宿の地に鎮座することになったのか。そこには、実業家の渋沢栄一氏が関係していた。
明治天皇が1912(明治45)年7月30日に崩御すると、その遺言によって陵墓は京都市伏見(伏見桃山陵/ふしみのももやまのみささぎ)と決定した。当時、東京では明治という時代を記念する施設を創設しようという動きがあった。その計画の一つにあがっていたのが、「明治天皇をお祀りする神社」だった。この計画は、渋沢栄一氏をはじめとする有力者によって神宮創設の具体案が示され、同時に「明治神宮外苑構想」も明らかにされた。
鎮座地が原宿の地となったのには、こんな理由があったとされる。当時、1912(明治45)年を目標に「大東京博覧会」の開催を計画していたものの、財政事情により中止となり、その予定地となっていた御料地と練兵場に白羽の矢が立てられたという。現在地が鎮座地として決定したとき、お祀りするのは明治天皇一柱であったが、同年に妃である昭憲皇太后が崩御したことを受けて、合祀することになった。
神宮の創設は、帝国議会での建議や閣議決定と、大正天皇の御裁可を得て、1915(大正4)年5月1日に「明治神宮の創建」が告示された。名称は、天皇の神社=神宮とし、過去の例(橿原神宮など)から、その地名を冠することも検討され「東京神宮」とする案もあったが、明治天皇の功績と明治という一時代を尊重して「明治神宮」になったといわれる。





