初詣と聞けば、明治神宮(東京都渋谷区)の名を聞かない年はない、と言っても過言ではないだろう。今年(2025/令和7年)で創建から105年を迎えた代々木の杜に鎮座する、明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする勅祭社「明治神宮」。そのおひざ元にある山手線の原宿駅も開業から119年を迎え、古くから皇室とつながりのある駅としても知られる。かつて3日間しか存在しなかった支線の存在や、明治神宮の創建によって駅の位置が変わるなど、街を支えてきた原宿駅の大正年間の出来事について、振り返ることにしたい。
※トップ画像は、2020(令和2)年3月21日から使用開始された原宿駅の新駅舎。その右隣は、かつて旧駅舎(1924/大正13年築)が建っていた場所で、現在はその外観(イギリス風の木造駅舎)を再現した商業施設への建て替え工事が行われている=2025年12月3日、渋谷区神宮前
山手線の原宿駅から約600m、明治神宮へ
原宿駅が開業したのは、今から119年前の1906(明治39)年のことで、駅の周りは野原だったという。当時はまだ明治神宮もなく、南豊島御料地(のちの代々木御料地)という皇室の直轄地だった。この御料地は元々、彦根藩主井伊家の下屋敷があったところで、明治天皇の妃である昭憲皇太后(しょうけん・こうたいごう)や皇太子時代の大正天皇が、庭園散策など遊覧に訪れていた場所だ。現在もこの庭園は、「明治神宮御苑」として一般に公開されている。
1909(明治42)年になると、御料地に隣接するように日本陸軍の訓練場となる代々木練兵場が開設された。現在、この広大な練兵場跡地の一部は、代々木公園になっており、様々なイベントが行われることでも有名だ。この公園のなかに、ひっそりと建つ石碑があるのをご存じだろうか。「昭憲皇太后大喪儀葬場殿趾碑」と書かれたこの石碑がある場所は、1914(大正3)年4月11日に昭憲皇太后が崩御され、その葬儀を行った「葬場殿」という建物があったところを標すものだ。
この地がまだ、代々木練兵場だった時代のことである。ちなみに、1912(明治45)年に明治天皇が崩御した際の葬場殿は、明治神宮外苑(当時は青山練兵場)にある聖徳記念絵画館の場所に設けられた。昭憲皇太后の亡骸は、京都市伏見区の桃山丘陵にある伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)へ埋葬することになり、代々木練兵場に設けられた葬場殿から京都の陵墓まで、亡骸をお運びする「御霊柩列車」を走らせることになった。
そこで、山手線の原宿駅から葬場殿まで、その距離約600mの支線を敷設した。駅名は、「葬場殿仮停車場(葬場殿仮駅)」と呼んだ。開業日は、1914(大正3)年5月24日のことで、その夜に大喪儀(一般の葬儀にあたる)が行われ、御霊柩列車は翌25日の午前2時に葬場殿仮停車場を発車し、京都へと向かった。この支線は、役目を終えると早々に5月26日付で廃止となった。わずか3日間だけ存在した山手線の支線だった。
















