設備のバリアフリーより居心地のよさ
君江さんは32歳の時、勤務先の事故で大ケガをして、車いすの生活を送るようになる。それまで外で飲むのも、出かけることも大好きなアクティブな君江さんだったが、入店を断られることが続くとさすがに落ち込んだ。その頃、リハビリに通う時、前を通っていたのが『串カツ田中』1号店だった。設備的には、「バリアフリー」とはほど遠い店である。
貫「なんかこう複雑な段差があったし、通路も狭くて。資金がなくて、壁もなかったんですよ。シャッター開けたらすぐ店です。今思うとよく営業許可が降りたなあと思うくらい。
東京で別の店をやってたんですが、リーマンショックの後倒産寸前で。もう大阪に帰ろうという寸前に、副社長だった田中洋江のお父さんが遺した串カツレシピが出て来たんです。それで、『最後に串カツをやってみるか』と。『いける!』なんて思ってないですよ。思ってたら、もっと早くやってた(笑)。
田中さえ、店を出すのを止めたくらいですから。『会社が潰れそうなこんなときに、また店を出すのか』と。僕は、『今じゃなかったら会社がなくなる』と。最後の思い出作りみたいな気持ちですね。世田谷の住宅街で居抜きの店を見つけ、たった350万円くらいで、ほぼ自分一人で突貫工事。店を手作りしました」
君江「でも、その頃すでに人気店でね。いつもにぎわって外まで人が並んでる店を見て、『串カツ食べたい!』と。私大阪出身なんですけど、実は地元で『二度漬け禁止』みたいなところはあまり行ったことなくて。ずっと行ってみたいと思ってたんです。忙しい時間帯だと絶対入れないだろうと、夜10時過ぎくらいを狙って。冬だったけど、断られたら最悪店の外に置いてあるドラム缶で外飲みする覚悟でした(笑)。
だから、ぬっきーが入れてくれて、お客さんたちもやさしかったのが本当にうれしくて。ああ、設備的にバリアフリーじゃなくても、こっちのほうが居心地いいなあと気づきました。
帰るときも、『また来てね』と言ってくれて。それからは、週1、2回は行く立派な常連です。家族ともよく行ったし、カウンターでひとり飲みもして、何年かは『串カツ太り』でした」
貫「きみちゃんはまた、よう飲むんです(笑)」


