似て非なる二つの鉄道 ~東京鎌倉急行電鉄と鎌倉急行電気鉄道~
魅力ある路線、儲かる見込みのある路線には、誰もが狙いを定め路線の獲得へ躍起になった。鎌倉急行電気鉄道の計画にも、追従する会社が現れた。その名は、東京鎌倉急行電鉄。この会社の設立発起人には、京成電気軌道(のちの京成電鉄)の社長だった本多貞次郎氏も名を連ねた。
東京鎌倉急行電鉄は、1929(昭和4)年3月に渋谷駅~由比ヶ浜駅(神奈川県鎌倉市)間の鉄道敷設免許の出願を行うのだが、その数か月後にあっけなく鉄道省に却下されてしまう。理由は、「鎌倉急行電気鉄道と目的を同じくするものにして、目下の交通状態においてはさらに敷設の要を認めない」という至極まっとうな回答だった。
いっぽうの鎌倉急行電気鉄道が鉄道敷設免許を得た区間は、渋谷駅を起点に現在の田園都市線(地下鉄区間)と東横線の間を抜けて野毛玉川駅(現・世田谷区野毛のあたり)を経由し、そこから目黒玉川電気鉄道の計画線をなぞるように鎌倉長谷寺のある街を目指す、全長30マイル(約46km)の路線だった。
時を同じくして、野毛玉川駅から新宿駅へと至る支線の免許申請も出願したが、こちらは1934(昭和9)年にあえなく却下された。確かにいまあったら便利だが、その却下理由は「小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)」に平行接近するをもってこれを除外する」というものだった。
同鉄道も用地買収と資金難に苦しんだ。鉄道敷設免許というものは、建設期限が定められ、その期限までに完成をみなければならなかった。しかし、免許期限を延長することで、先延ばしにして時間稼ぎをすることもできた。ところが、度重なる延期に嫌気がさした鉄道省側は、1935(昭和10)年7月に免許の延長を認めず、これを却下した。結果、鎌倉急行電気鉄道の鉄道敷設免許は失効し、計画は頓挫した。
またしても、世界恐慌とその余波を受けた資金難という壁に阻まれ、鉄道計画の野望は消え去ったのであった。先人たちのくやしさは、どれほどのものであっただろうか。「今もしここに鉄道が開通していたら」という思いは、彼ら鉄道起業家たちの強い意志の表れとして、未来永劫語り継がれていくことだろう。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。
















