国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。人気連載「音楽の達人“秘話”」は、忌野清志郎(1951~2009年)を今回から取り上げます。1968年の高校在学中にRCサクセションを結成し、「雨あがりの夜空に」など数々の名曲で多くの人に愛されながら、58歳の若さで逝った“キング・オブ・ロック”。メジャーになる前から親交のあった岩田さんが、この友人との思い出を振り返ります。
音楽で食べてゆけるのは別次元
プロのミュージシャンとなって、音楽一筋で生計を立ててゆくのは難しい。音楽が好きで演奏もできるというのと、音楽で食べてゆけるのは別次元にある。
1960年代、ベンチャーズが人気となり、アマチュア・バンドが数多く生まれた。同じく、フォーク・ブームもあってアマチュア・グループも数多く誕生した。ザ・ビートルズや日本のグループサウンズの人気もミュージシャンに憧れる若者を増加させた。
私事だがぼくにもプロになるチャンスがあった。現在もカリスマとして活動する元祖日本語ロック・バンドのリーダー、PANTAが頭脳警察結成の際、ギタリストとして誘ってくれたのだ。
だが、結果的にバンドに加入しなかった。それは度胸が無かったからだ。自分の下手なギターの腕とか将来のこととか余計なことを考えてしまったのだ。音楽が好きで後先考えず、とにかく挑戦し、そうしたら死ぬほど努力して這い上がる。今なら分かることだが19歳の自分には分からなかった。飛び込む度胸が無かったのだ。何の仕事にしろ、それで生活してゆくのは、一に度胸、二に死ぬほど努力という2D(度胸、努力)が必要なのだ。
「とにかく音楽をやっていれば幸せ」 度胸の男・忌野清志郎
存命ならば、ぼくより一歳年下の忌野清志郎も度胸の男だった。
“音楽やってデビューして、スターになってとか考えたこと無く、とにかく音楽をやっていれば幸せで、そうやって人生終わればいいなって、高校生の時は考えてたな。向こう見ずなのか、度胸があったのか。人間、やれば何とかなるんじゃないかな。まあ、やらないであれこれ言うヤツ、多いけどね”
1970年代、RCサクセションがメジャーになった頃、清志郎はそう語った。
“親達や社会とかがどんな基準で言ってるのか分からない、イイ会社に勤めて、どうもよく分からない幸せな結婚とやらをして、平和な家庭を築いて、そして、いつか死んでゆく。そういう生き方を否定する権利はオレには無いけど、自分にはそういう考えが一切無かった。人に言われて、いわゆる普通から浮いてるって言われても、自分が自分であることが普通だと10代、20代の若い頃は思ってたね”