国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。歌手・中森明菜の第2回は、筆者が2回目に逢った時のインタビューでつぶやいた一言に焦点を当てます。「人間って儚い…」。「儚」という文字は「人」の「夢」と書きますが、その言葉にどんな想いを重ねたのでしょうか……。
「明」の松田聖子、「暗」の中森明菜
今でもそうかも知れないが、誰もがアイドルに恋する時代があった。アイドルという言葉が一般的になったのは昭和の時代、1970年代かと思う。1960年代にも弘田三枝子などアイドル人気を得たシンガーはいたが、あえてアイドルと呼ぶメディアは少なかった。元祖三人娘と呼ばれる美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミはアイドルの元祖だろうが、彼女たちが若い時はアイドルとは呼ばれなかった。
アイドルという言葉が一般的になったのは、1970年代、新三人娘と呼ばれた南沙織、小柳ルミ子、天地真理が活躍した頃からで、山口百恵、桜田淳子の登場でひとつのピークを迎える。歌唱力よりもルックス重視、可愛らしさが人気の要となった。
中森明菜と松田聖子は1980年代を代表するアイドルと思う。そして、どちらも歌がそう上手くないアイドルを凌駕する歌唱力を持っていた。ぼくは松田聖子に1回、中森明菜に2回インタビューをしているが、彼女たちの世間的なイメージである明の松田聖子、暗の中森明菜というのはそう間違っていないと思う。
10代でデビューするアイドルの人気は短い。中森明菜も1984年の「飾りじゃないのよ涙は」、1986年の「DESIRE-情熱-」あたりをピークにやや人気に翳りが見え始める。竹内まりや、小室哲哉という人気ミュージシャンに曲を依頼したが、全盛期ほどのセールスとはならなかった。
東京・半蔵門のスタジオの窓の外を見ながら
ぼくが1984年に次いで中森明菜と逢ったのは1988年の春だった。ぼくはその頃、FM東京初の深夜の生番組「キャプテン・ミッドナイト・ショー」のDJを務めていた。自分の番組のゲストに来てもらったのだが、多忙な人なので生ゲストでなく、中森明菜のゲスト・パートだけは録音となった。
東京は半蔵門、皇居のお堀端に建つFM東京のビル。そこにあるスタジオからは自然あふれる皇居が望めた。時刻は夕暮れ時、空はまだ明るさを幾分か残し、ターナーの絵のように幻想的な色あいを見せていた。対談のムードを出そうとスタッフがスタジオの証明を消してくれていたのを覚えている。
当時の彼女は22歳。10代の時に逢った印象の少女らしさは消えて大人の女性になっていた。スタジオの外は闇が支配しつつあったが、かすかに残光があった。再会の挨拶を交わした後、薄暗いスタジオの窓から外を見ながら彼女はポツンと言った。
“人間って儚いですよね”
ぼくは何故若い彼女がそんなことを思うのか訊ねた。“時々、ぼんやりそう思うんです”
歌っている時もそんなことを思うのかぼくは訊ねた。“それが歌ってる時は、何も考えていないんですね。ただ本当に一生懸命に歌っていたなあって、あとで思います”