バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第126回は、「露出について」。
親分は言った。「てめえにはいいところが3つだけある」
かえすがえす誤解のないように言うが、本当はシャイなのである。
若い時分、世話になっていたある親分が言っていた。
「次郎、てめえはヤクザにもなれねえカタギでもねえ半竹(はんちく)な野郎だが、いいところが3つだけある。わかるか。酒を飲まねえ、口数が少ねえ、目立ちたがらねえ。その3つだ」
誰が何と言おうが、原稿をここまで読んだ編集者がヘソで茶を沸かそうが、この評価はまさに正鵠(せいこく)を射ていると私は断言する。
酒を飲まないのは今も昔も周知の事実であるが、本当は口数が少なく、目立つことが嫌いなのである。
ではなにゆえ「おしゃべり」「出たがり」「お祭りおじさん」「露出狂」などという酷評を与えられるのであろうか。それは、どうしてもそうせざるを得ない立場に立たされちまったので、やむなく、不本意ながら、ひどく無理して、内心は泣きながら嘆きながらそうしているのである。
一生懸命に書いた小説が本になるのは、子供が産れたのと同じくらい嬉しい。たくさんの子供を産むのが作家のつとめではあるが、親としてはわが子にできる限り寄り添って育てたいと思う。育てるということはもちろん、売ることである。
私はデビューが地味であったので、デキはいいのに不幸な子供を大勢作ってしまった。これは決して版元の責任ではなく、親に力がなかったので子供らを満足に育てられなかったのだと思っている。
ということは、ようやく賞をいただいて部数が伸び始めた今、全力をつくして本を売ることは作家としてのつとめではないかと思うのである。
本は勝手に売れているのではなく、誰かが売ってくれているのであって、それは私の産んだ子供を見ず知らずの販売担当者や書店員が育ててくれているのと同じことであろう。ましてやその結果、経済的恩恵を蒙(こうむ)るのは彼らではなく私なのであるから、できるだけのことはしなくてはなるまい。
私は口先だけの「ありがとう」や「ごめんなさい」は嫌いである。有難いと思うのであれば恩義は体で返さねばならず、すまなかったと思えばやはりその責任は体で負わねばならない。日本男児のみが持っている士魂(しこん)とはそういうものではあるまいか。
てなわけで、この半年の間にサイン会を9回も強行、テレビ、ラジオは出まくり、雑誌インタヴューは数知れず、ともかくいくらかでも販売促進に役立つと思われることはすべてやってきた。その結果、ハゲ頭の実物を一般大衆に広く知らしめることとなった。
はっきり言って、苦痛である。
私の場合、サイン会では「ここで会ったが百年目」という仇敵(きゅうてき)がいつ現れるやも知れず、身の危険を感じる。行列が背後のガラス越しに並んでいた丸善本店では、口にこそ出さなかったがほとんど肚(はら)をくくっていた。まさか防弾チョッキを着てサイン会に臨むわけにもいかぬ。
NHKの「堂々日本史」では、パネルを振り返ったとたんおのれも見たことのない頭頂部のザビエルハゲが大映しになってしまい、これを2000万人ぐらいの人が見ているのかと思うと、オン・エアのテレビを見ながら死にたくなった。
雑誌のグラビアや新聞広告は、なるたけ見ないようにしている。
あまつさえ、版元の販促会議に毎度出席する作家は前代未聞であろう。