バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第92回は、「縁(えにし)について」。
作家と気づかぬままパドックで何度も言葉を交わした
山口瞳さんが亡くなられた。
訃を報じる朝刊を持って書斎にこもり、今この原稿を書いている。
人の縁(えにし)とはふしぎなものだと、つくづく思う。一世代もちがう大先輩のことを私が「山口瞳さん」と呼んでしまうのも、はたしてご葬儀にうかがうべきかどうかと逡巡しているのも、みなそのふしぎなご縁のせいである。
私は作家・山口瞳先生を存じ上げない。またあちらも、浅田次郎などという駆け出しのことは全くご存じなかったはずである。だが、まことに奇妙な話ではあるが、私たちはずっと昔からお互いを知っていた。
初めてお会いしたときの記憶はない。しかし少くとも10数年前、いやたぶん20年ぐらい前から、私は週末にはいつも、山口瞳さんの隣に立っていた。
奇縁の場所は、東京競馬場の4階指定席のベランダである。私と山口さんはたいてい同じ位置から下見所パドツクを周回する馬を見おろし、しばしば短い会話を交わした。
競馬ファンはそれぞれにちがった方法で予想をする。レースの展開を推理する者、持ちタイムを重視する者、血統を考える者、出目や語呂あわせを楽しむ者、そして時間の許す限りパドックに張りついて、当日の馬の気配に注目する者。
つまり私も山口さんも、昔から根の生えたようなパドック党であった。
馬体のデキ具合や馬の調子を判断するためには、いつも同じ位置、同じ角度からパドックを見なければならない。だから自然と、同じ場所に同じファンが集まる。私と山口さんはずっと昔から、その場所が同じだったのである。
私は小説家デビューはずいぶん奥手だったのだけれど、競馬については早熟であった。ということはつまり、小説の勉強は怠っても、競馬は怠らずにやっていた。17で馬券を買い始め、20歳を過ぎたころには一丁前に指定席の客になっていた。
開門前の行列に並び、4階のスタンドに上がってコーヒーを飲む。いつに変わらぬ私の至福の時である。やがて第1レースに出走する未勝利馬がパドックの周回を始めると、レストランの外のベランダに人々が集ってくる。
山口さんは東スタンドの方から運動靴をはいて走ってきて、いつもの場所に立つ。私もレストランを出て、肩を並べるように双眼鏡を覗きこむ。
「3番の馬、いいですねえ」
「そうかね。ちょっと太くはないかな」
「気合は入ってますよ」
「うん。そうだね、いい気合だ」
と、そんな短い会話も何度か交わした。
山口さんはあまり長くパドックを見ない。東スタンドのゴンドラ席から毎レースごとにはるばるやって来るせいもあるのだろうが、ひと通り馬を見ると、また小走りに去って行く。そのあわただしい素振りがとても印象深かった。
一般のファンでは入れないゴンドラ席から下りてくるし、しばしば著名な競馬評論家の赤木駿介さんとご一緒だったので、特別な人だとは思っていた。だがまさか、あの山口瞳さんだとは気付かなかった。
考えてみればふしぎなことだ。私は若い時分から小説家に憧れていたので、偶然に作家と出会った瞬間のことはいちいち鮮明に覚えている。見逃したこともまずないと思う。
三島由紀夫を後楽園のボディビル・ジムで目撃したときのことはかつて本稿にも書いた。
中学生のころ日比谷で吉行淳之介と出くわしたときは心臓が止まりそうだったし、井上ひさし先生と青山の鰻屋で隣り合わせたときも、胸がドキドキしてウナギが喉を通らなかった。
だが、山口瞳さんに限っては毎週末に顔を合わせ、時には言葉すら交わしていたのに、何年もの間そうとは気付かなかったのである。種々雑多な人々が寄り集う、競馬場という場所のせいなのかもしれない。いや、今にして思えば、そのぐらい庶民の中の小説家だったのであろう。