バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第128回は、「ふたたび真夜中の伝言について」。
作家の生活を一変させたファックスという文明の利器
わが家の2階には6畳大のふしぎな部屋がある。
白い壁紙を貼りめぐらせた日当りのよい一室なのであるが、どことなく冷ややかで無機質で、そのくせ真夜中でもざわめきや小さな悲鳴が絶えない。
近ごろではこういうふしぎな部屋をお持ちのご家庭は多いと思う。
壁回りに、まずパソコン。業務用と家庭用のファックスが2台。電子ピアノ。そして電動式仏壇。これがわが家におけるこの部屋の住人たちである。そう、ごく最近、自衛隊の同期生有志から機密保持のためのシュレッダーが贈られ、この部屋のメンバーに加わった。
もちろんそれらの多くは、私の仕事の合理化のために設置せられたものなのであるが、当の本人はいまだ1階の書斎で、文机(ふづくえ)に原稿用紙を拡げ、古色蒼然たるスタイルで万年筆をふるっている。
誠に遺憾(いかん)ながら私は徹底的な機械オンチで、彼らを制御することはまったくできない。もっともそんな私だからこそ、彼らから授かる恩恵もまた大きいのであるが。
ことに、私はファックスという機械を尊敬している。
いったいどういう仕組みなのかは知らんが、文字や図柄が電話線を通じて電送される。この利器の登場により、小説家が授かった福音(ふくいん)ははかり知れない。
第一に、原稿の受け渡しが瞬時にして行われるので、編集者と無駄話をせずにすみ、旅先からでも行方不明中の謎の場所からでも、何ら支障なく連載小説を送ることができる。その結果、多くの旅先作家、地方在住作家、海外居住作家が出現することになった。ファックスは小説家に人間的解放をもたらしたのである。
第二の利点として、いちいち電話の応対をする必要がなくなった。原稿が一段落ついたときにファックスを覗けば、連絡事項はちゃんと文書になって配達されている。しかも、それらをファイルしておけば約束事を忘れることもなく、記録にもなるのである。
第三に、連絡の時間帯というものをまったく気にする必要がない。夜中だろうが明け方だろうが、書き上がった原稿を送ってしまえば仕事はおしまいで、一方の編集者たちも夜中だろうが明け方だろうが、連絡事項を送ってさっさと帰宅してしまえばよい。ともに不規則な時間割で生活をしている私たちの業界で、このコミュニケーションのありかたは積年の夢であったといえよう。
あらゆる物品の購入に関して、極めて慎重かつ吝嗇(りんしょく)であるはずの私が、わが家の一室に最新鋭業務用ファックスを導入した理由は、ひとえにこの利器に対する尊敬の念からであった。
というわけで、版元音羽屋に関連業者を紹介してもらい、身内価格をさらに値切り倒してこの最新鋭機を買ったのであるが、実のところ機械が上等すぎて、何が何だかわからんのである。
ために、かつて本稿でも書いたが、真夜中にアイ・バンクの留守電にアクセスしてしまい、「ご遺体についてのご連絡は……」などというコメントに慄(ふる)え上がったこともあった。
実は先日、この機能の複雑さのためにまたしても失敗をやらかしてしまった。過ぎてしまえばけっこうおかしいので、まあ聞いてくれ。