『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、徳川斉昭と水戸城です。
倒幕へのエネルギーとなった「水戸学」
徳川斉昭は最後の徳川幕府将軍・慶喜の実父です。徳川斉昭は第7代水戸藩主・徳川治紀(はるとし)の3男として小石川の水戸藩邸に生まれます。彼を教育したのが水戸学の学者だった会沢正志斎(あいざわせいしさい)です。水戸学は水戸黄門として知られる第2代藩主光圀が始めた『大日本史』の編纂に携わった学者が中心となった学問で会沢正志斎もそのひとりです。
水戸学を説明するのは難しいのですが、ひと言でいうと、天皇を尊び、その権威のもとに幕府を中心とした国家体制を強化するという考え方です。しかし、そこから「天皇が幕府よりも上だ、幕府はけしからん」という考えが起こり、倒幕へのエネルギーとなっていきます。
つまり水戸学が欧米列強の脅威に対するスローガン、尊皇攘夷に結びつき、倒幕への大きな力となったのです。ちなみに尊皇攘夷という言葉を初めて使ったのも徳川斉昭で弘道館の教育理念を表した『弘道館記』に出てきます。
30歳で藩主に、全国の志士に影響を与える存在
それはさておき、水戸学をたっぷり教えられた斉昭は30歳で藩主となり藩政改革に取り組みます。具体的には当時最大の規模を誇った藩校、弘道館を設立し、門閥よりも人物本位で人材を登用しはじめます。また大規模な軍事演習を行うほか、ロシアの南下に備えての蝦夷地開拓や大型船舶の建造といった献策を幕府に行い、全国の志士たちに影響を与えるようになります。
嘉永6(1853)年、浦賀にペリーが来航すると、老中首座、阿部正弘に乞われて海防参与となりますが、斉昭は強硬な攘夷論を展開し、幕府を困らせます。なんと水戸藩所有の大砲74門と軍艦を幕府に提供するというから筋金入りです。しかし、結局は、ご承知のように幕府は開国、日米和親条約を結びます。当然斉昭は参与を辞任しますが、軍制改革参与として再び幕政につきます。