国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。クレイジーケンバンドのリーダー、横山剣の第2回は、在籍したクールスRC時代のお話です。クールスRCのメンバー、ジェームス藤木に強い影響を受けたといいます。
バイク好きが集まったクールス
クールスは元々はバンドでなくバイク好きのメンバーが集まったチームの名だった。発起人は舘ひろし、岩城滉一などだった。1974年頃の話だ。東京・表参道にあった伝説の喫茶店、レオンにたむろしていた。そのクールスはひょんなことから矢沢永吉が結成していたキャロルの解散コンサートで親衛隊を務めることになった。
1975年4月13日のことだ。クールスの名は音楽業界に知れ渡り、キング・レコードからデビューの話が来た。チームから選抜された7人とバンド結成のために参加した大久保喜市の計8名は、クールスとして1975年9月、シングル「紫のハイウェイ」でデビューした。だがメンバー内でトラブルもあり、舘ひろしはクールスを脱退する。
舘の代わりにリーダーとなったドラムスの佐藤秀光はリードギターでサウンドのもうひとりの要だったジェームス藤木と共にバンドの存続を模索した。トリオ・レコードへの移籍が決まったが、クールス(Cools)というバンド名の権利はキング・レコードが持っていたのでそれは使えなかったとされる。そしてクールス・ロカビリィ・クラブ~クールスRCと名乗ることになり、1977年6月、トリオ・レコードからシングル「ハイスクールクイーン/ロンリー・ベースマン」を発表した。
クールスRCはオートバイ、リーゼント、黒のレザーにまとめたファッションなどから、不良っぽいイメージが先行する。が、音楽的に素晴らしいバンドでBUCK-TICK、藤井フミヤ、山下達郎などから愛されるミュージシャンズ・ミュージシャンと呼べるバンドだ。ぼくもメンバーに、特にジェームス藤木とは何回も逢っているが、その音楽知識は相当なものだ。
17歳で、クールスRCへ
そんなクールスに魅せられていたのが、物心付いてから横浜を転々として育った少年、横山剣だった。音楽的感性が豊かだった横山剣はキャロルに惚れ、当然のようにクールスRCにも引き込まれた。堀越高校に通っていたが2年で中退。定時制高校に通いながらガソリン・スタンドで働き、デモテープをレコード会社へ持ち込んだりしていた。
走り屋のようなこともした。たまたま原宿に出かけ、クールスRCの佐藤秀光が経営していたロカビリー・ファンなどに向けたブティーク「チョッパー」に寄った。友人の先輩が「チョッパー」のスタッフだったこともあり、クールスRCのメンバーと知り合う。そして17歳の時、1978年にクールスRCのローディー(スタッフ)となった。同時に「チョッパー」の店員にもなった。音楽的には10代の少年としてはかなりの知識を持っていたが、メンバー、特にジェームス藤木に強い影響を受けた。
“ほとんど毎日、仕事が終わったジェームスさんを東京の中心から多摩方面の自宅まで車で送っているんです。真夜中、明け方。ジェームスさんはその車内でずっと古いR&B、ロックンロールを鳴らしっ放しでした。そして自分が分からないことがあると何でも教えてくれました。あの時間はとても大切なものでした”と横山剣はぼくに教えてくれた。