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GHQの占領時代に起きた変化

寿司屋が劇的に変わったのは終戦直後からです。GHQのマッカーサーは占領政策の一環であらゆる物資に統制の網を掛けました。その網から逃れたのが支那そばと寿司でした。

支那そばはラーメンと名前を変えて広まったのに対して、寿司の方も「米1合を店に持っていき加工賃を払えば、握り寿司7貫とのり巻き1本を出す」という委託加工制度によって復興期の庶民の間に定着していきました。この委託加工制度は江戸前の握り鮨だけに許されたものだったため、各地の郷土寿司や関西の押し寿司を押しのけて、日本全国で握り鮨が幅を利かせていくようになります。

現在の寿司1人前の「お決まり」はこの時代の名残りといっていいでしょう。私の高校時代、つまり昭和30年代後半の寿司1人前は「握り7貫とのり巻き1本」で130円でした。忘れもしません、世田谷区役所の前にあった食堂のゲソ揚げ天丼やうどん、ラーメンはどれも35円でしたから、寿司は学生にとって高嶺の花という時代でした。

そういえば当時、新宿の西口ガード下では「戸板商売」というのをやっていました。雨戸の板に商品を並べて売る商売ですね。国鉄――現在のJRの1区間の乗車賃は当時10〜15円。都電は中野から新宿への往復で25円でした。今となっちゃ遠い昔のことのようです。寿司屋も時代とともに変わってきました。

江戸前の寿司飯は、赤酢(酒粕酢)を使っていたため、ほんのり山吹色をしていました。それが戦後になって、ミツカンから米酢をベースにした「白菊」という透明に近い寿司用食酢が出て、飯の色も白くなりました。

一説には、終戦直後は米を持って行って鮨を握ってもらいますから、寿司飯に色がついていると、古い米を使っているのをごまかしてるんじゃないかとお客さんに嫌がられたからということもあったようです。米酢は赤酢より高価ですが、時代が豊かになって酢が変わり、寿司の味も変わっていったんですね。

(本文は、2012年6月15日刊『寿司屋の親父のひとり言』に加筆修正したものです)

「ショーケースに付け台のカウンター」という伝統的な店構えの寿司屋 です。

すし 三ツ木

住所:東京都江東区富岡1‐13‐13
電話:03‐3641‐2863
営業時間:11時半~13時半、17時~22時
定休日:第3日曜日、月曜日
交通:東西線門前仲町駅1番出口から徒歩1分

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