1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第55回。作家が思いついたちょっとした「シャレ」が、女性編集者を大混乱に陥らせた顛末について。
画像ギャラリー「洒落(しゃれ)について」
「上等な江戸っ子」とは「シャレ者」のこと
東京がきわめて固有の文化を持った一大ローカル都市であるということは、本稿にもいくどか書いた。
固有の文化の中には当然、固有のモラルや生活上のプライオリティが存在する。
誰でもてめえのことは良くわからんのであるが、近ごろ40も半ばになってようやく、自分がこうした土俗的モラルとプライオリティに呪縛されて生きていることに気付いた。
では私のごとき原東京人のそれらとは何か、というと、つまり「シャレ」である。死んだ父はしばしば人を評して、「あいつァシャレ者(もん)だから」というようなことを言った。これは最高の賛辞なのである。
「シャレ者」を一言で表現するのは難しいが、だいたい3種類の意味があると思う。
①ファッショナブルで身ぎれいなこと。
②言動が当世ふうで粋なこと。
③機知にとんだ会話ができること。
と、つまりこうした人格の総合力が、「上等な江戸ッ子」とみなされてきたわけである。
考えてみればなるほど亡父はシャレに生きシャレに死んだような人であり、かくいう私もシャレに命を賭けているフシがある。
言うのは簡単だがライフ・スタイルとしてはけっこう難しい。ほんの少し間違えば「キザ」「偏屈」「軽薄」「ミエッぱり」ということになり、たしかにこれらも東京人の客観的な性格とされている。
ここでちと文学者を気取る。
「洒落」という字ヅラがあんまり怪しいので前行より6時間の研究の結果、明代の王錡(おうき)の撰にかかる「寓圃(ぐうほ)雑記」という故実集の中に、「洒落」が存在していることを知った。
〈李荘、字は敬中、人と為り襟度洒落、翰詞に刻意す。作る所有れば、人争うて之れを伝ふ〉
李荘という人は人格が折目正しくさっぱりとしており、詩作に長じていた。彼が詩を作れば人は争ってこれを読み、口ずさんだ──というほどの意味である。
これで私の小説が売れない理由も判明したわけだが、まあそんなことはどうでもいい。問題はどの大先生も、「寓圃雑記」のこの一文について、「洒落」を「シャレ」とは読まず、
「シャラク」と読んでいるのである。
ならば「シャレ」とは何かと、私は深く思惟(しい)した。さらに長考すること2時間の末、ついに大胆な仮説に到達した。
「シャレ」を生活上のプライオリティ第1位に据えた江戸庶民が、そうそう漢籍に通じているはずはないから、これはおそらく、英語の”charming(チャーミング)”もしくはフランス語の”charmant(シャルマン)”に由来する巧妙なアテ字なのではあるまいか。
「シャルマン」=「洒落」──おお、何たるおシャレ! ……でも、たぶんちがうと思う。
さて、版元紀尾井屋の番頭が朝も早よから催促に来ておるので、他社の原稿を急ぐ。彼に渡す原稿はとっくにでき上がっておるのであるが、何だか切羽詰まった顔をしているので、できていないフリをして「勇気凜凜」を書いている。つまり、こういう行いを「シャレ」というのである。
「最低……もう、最低……幻滅です」
そういえば近ごろ、極めつきのシャレを思いついた。思いついたとたん矢も楯(たて)もたまらなくなるほどのシャレである。
どういうものかというと、まず各社の担当編集者とツーショットのプリクラを写す。それを等分して互いの携帯電話とか手帳にペタペタと貼る。この際、要点としては決して照れず笑わず、真剣このうえない仏頂面をする。
このシャレが大流行すれば、名刺交換のかわりに互いの手帳を見せっこしただけで、作家は編集者の格がわかり、また編集者はライバルがひとめでわかる、という寸法だ。
くだらん。まことにくだらん。しかし、シャレの定義である前記3項目は完全に満たしておるので、私はたちまちこれを実行に移した。
まず一人目の犠牲となったのは、版元F社のH女史である。たまたま6月に刊行予定の『活動寫眞の女』の取材のため、池袋の映画館に溝口健二の映画を観に行った。ゲラ校正の途中に疑問点が生じたので、折しも天啓のごとくリバイバル上映されていた映画を観に行ったのである。
「Hさん、実はお願いがあるんだが」
と、私は映画館から出たあと、たそがれの裏町で彼女の腕を引いた。H女史はたいそうマジメな人なので、誘い方は難しかった。言ってしまってから私は、いかにシャレとはいえ赤面した。
「はい、何でしょう。できることでしたら、なんなりと」
「たのむ。笑わないで聞いてくれ。いっぺんだけ、いっぺんだけでいいんだ」
まずいことに、プリクラの並んだゲームセンターのすぐうしろはホテル街であった。H女史は私の背後にホテルの灯を見ており、私は目前のプリクラしか眼中になかった。したがって何も言わぬ前からH女史のスッと青ざめた理由が、私にはわからなかった。
「たのむっ。ハゲおやじが何てこというのとは思わんでくれ」
「…………」
「君は何もしなくていい。黙ってジッとしてくれてりゃいいんだ。すぐ終わる。な、いっぺんだけ、いいだろ」
私は営業が長かったので押しは強い。営業の極意は1に押し、2にも押し、3に誠意、4に泣き、と先輩のトップ・セールスマンから教わった。「困りますよォ、そんなこと……」
と、H女史は私の真剣なまなざしから身をかわすように笑った。私はガ然燃えた。子供のころから、ダメと言われるとムキになって燃えるタイプであった。
「困るのはおたがいさまだ。君は恥ずかしいだろうけど、男の俺はもっと恥ずかしい。どうだ、2人して恥をかこうじゃないか」
「……最低」
「そりゃサイテーですよ。文化人の風上にもおけんですよ。そこを何とか」
身を翻して歩き出そうとするH女史の腕を私は摑まえた。
「な、な、いいだろ。君がウンと言ってくれたら、たてつづけにS社のCちゃんとか、C社のMさんとかもだね──」
「最低……もう、最低……幻滅です」
「サイテーとかゲンメツとか、そこまで言うほどのことじゃあるまい」
「言うほどのことですよ!」
「女ばかりじゃないぞ。経験を積んでコツがわかったら、K社のOとかB社のHとか、そうだ、週刊現代のFとも必ずやる。約束する」
「……浅田さん、あの、オーバーワークでどうかなっちゃったんじゃないですか」
「冗談じゃない。俺は疲れているときほどシャープなんだ。な、な、いいだろ1回だけ。シャレだよ、シャレ」
「シャレ? ……ひどい。ひどすぎる」
こうなれば実力行使するしかなかった。私は力ずくでH女史をゲームセンターに引きずりこみ、暗幕で囲われたプリクラの画面の前に立った。
とたんに誤解がとけ、H女史はその場にへたりこんでしまった。
「書きこみが足りないって、いつも言ってるのにィ……」
「書きこみ? 何だそれ」
「だから、文章は思いこみで書かずにですね、読者の立場に立って、主語とか目的語をはっきりと」
「……何だかわからんが、ともかくやるぞ。いいか、笑うなよ。笑わずに仏頂面で。よおし、いいぞその顔」
かくて記念すべきプリクラ第1号は完成した。以後、コレクションは順調に進行中である。
(初出/週刊現代1997年5月17日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。
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