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1990年代半ばは激動の時代だった。バブル経済が崩壊し、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、自衛隊の海外派遣、Jリーグ開幕に、日本人大リーガーの誕生、そして、パソコンと携帯電話が普及し、OA化が一気に進んでいった。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルからの視点で切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」(週刊現代1994年9月24日号~1998年10月17日号掲載)は、28年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイの精髄を、ベストセレクションとしてお送りする連載の第54回。子供の頃から大の動物好きだった作家が、瀕死のネズミを看護することになった顛末について。

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「いのちについて」

執筆中の深夜、廊下で異様な気配が!?

幼時体験は人生を支配するのだそうだ。

私は何事も悲観的に考えることをしないので(つまりノーテンキなので)、あまりこの定説は信じたくはないのであるが、わが身に照らせば、まあ思い当たるフシがないではない。

文学的トラウマ、と考えてみればものすごくわかりやすい。

幼いころ、芝居好きの祖母に連れられて、よく歌舞伎を見に行った。日本橋に生まれて、祖父に見染められる前には向島(むこうじま)の鉄火芸者だったというこの祖母は、とりわけ黙阿弥(もくあみ)の芝居が好きだった。

よっぽど趣味が偏向していたとみえて、古典の荒事(あらごと)や近松の和事(わごと)はいっぺんも見せてもらった記憶はなく、もっぱら黙阿弥の世話物ばかりに連れて行かれた。

そのせいで40年ちかくたった今でも、河竹(かわたけ)黙阿弥を文学の神様のように信奉しており、スランプに陥るとまるで経文を唱えるように、突然家人をおののかせて朗読を始める。しかも霊験はあらたかなのである。まちがいなく文学的トラウマのなせる業であろう。

志賀直哉という作家には、妙な偏見を持っている。

なぜかというと、初めて接した作品が教科書に採録されていた「城の崎にて」であった。

私は生まれつき大の動物好きで、金魚と小鳥をいつも飼育しており、猫を抱いていなければ眠ることができなかった。つまり、小説の価値とか文章の正確さ端正さなどとはもっぱら関係なく、川で溺れる鼠をじっと見つめているような話が、我慢ならなかったのである。

で、その後「暗夜行路」を読んだときも、「城の崎にて」の衝撃が忘れられず、あの鼠を見殺しにした小説家が書いたのだと、ほとんど呪いながら読んだ。

もちろん志賀直哉が「小説の神様」と呼ばれ、文章のお手本とされることに異論はないのであるが、自分で小説を書きながらふと、

(志賀直哉みてえに冷てえな)

とか、

(志賀直哉みてえにスカスカだな)

と、まるで悪い手本のように考えこむことがしばしばある。怖ろしいことに、いまだにある。

したがってその結果、本稿を一読してもわかるように、ギトギトの感情移入、およびゴテゴテの文章をひけらかすようになった。

誤解なきように言っておくが、志賀直哉が憎いわけではないのである。溺れる鼠を見殺しにしたやつが許せんのである。

いかん、また前フリが長くなった。これではまるで谷崎の小説のようなので、ストーリー展開に移る。

過日、向こう10日で300枚という、石抱きの拷問のごとき締切原稿を抱えて唸(うな)っておった深夜、廊下で異様な気配がした。

折しも原稿は、「ストリート・チルドレンの一団が北京の胡同(フートン)でロシア貴族を襲撃する」という、荒唐無稽かつ手に汗握る緊張のクライマックスに突入していたので、思わず髪の毛が逆立った。

髪の毛を逆立てた私の姿を想像していただきたい。その姿を他人が見たら驚愕するであろうが、ともかく私は髪の毛を逆立てて驚愕した。

ダスキンモップを握って襖(ふすま)を開けた。ストリート・チルドレンの一団がいると思ったのは私の妄想で、猫がいた。

ホッとした次の瞬間、私は大声を上げて三匹の飼猫をぶちのめしたのであった。あろうことかわが家の猫どもは、よってたかって鼠をいたぶっていたのである。

猫が鼠をいたぶってどこが悪い、とおっしゃる向きもあろうが、まあ聞いてくれ。その鼠は生まれてまだほどない、マッチ箱の身丈ぐらいの子鼠だったのである。

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子鼠をパンツの中で看護しながら……...
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おとなの週末Web編集部 今井
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