子鼠をパンツの中で看護しながら……
ピンク色の腹を見せて仰向き、チーチーと鳴きながら小さな足をじたばたさせる子鼠を掌(てのひら)に抱き上げて、私はうろたえた。
とりあえずは仕事どころではない。外傷は見当らなかったが、小動物はショックでも死ぬのである。
どうするべきかと考えたあげく、とっさに子鼠をパンツの中に入れた。応急処置としては、まず保温と保湿、そして身の安全を自覚させる暗所──といえば、最適の場所はパンツの中しかなかった。
私は体毛は薄く頭毛も薄いが、どういうわけか陰毛は濃い。もし私がパニックに陥った子鼠であったらとカフカのごとく想像をたくましゅうすれば、望む場所はパンツの中をおいて他にはない。
(死ぬなー、死ぬなよー)
と心に念じながら、朝までジッとしていた。
初めのころは陰毛の中でグッタリとしていた子鼠は、そのうちショック状態から脱出したとみえて、パンツの中を歩き始めた。
こうなれば、次はエサである。
股間を押さえつつキッチンに行き、牛乳を湯で割って子鼠用の流動食を作った。問題はこれをどうやって飲ますかである。
スポイトはない。ストローでは太すぎる。耳そうじ用の綿棒を思いついた。
ミルクを綿棒に浸して、耳の穴どころか虫食い穴ほどの大きさの口に持って行くと、ありがたいことに母鼠の乳首をしゃぶるようにして吸ってくれた。
命とはふしぎなものだ。体温が安定し、ミルクを口にすると子鼠の元気はたちまち回復した。
チュー太と名付けた。名前がなければ愛せない。漢字はあれやこれやと考えたあげく、「宙太」とした。
「宙」とは舟輿(しゅうよ)の極(いた)り覆う所、すなわち大地をおおう宙(おおぞら)である。また往古来今(おうこらいきん)の意、すなわち永遠の時間である。
早く元気になって、大地を走り長生きをせよと、私は祈った。
かつて小鳥や捨て猫を飼育した経験に則り、2時間ごとにミルクを与えた。そのたびに宙太は活力を増した。
丸一日を宙太の面倒見に費してしまった。ということは、10日で300枚の石抱き拷問が9日で300枚の重みになってしまったのであった。
例によって起居は座椅子の上である。まことに悲惨な生活ではあるが、原稿のたてこむ月の初めはこういうことになる。
だが、宙太の飼育をしながらの仕事はむしろ都合がよかった。座椅子を倒して仮眠をとるのはだいたい2時間の単位なのである。力尽きて眠り、目覚めて宙太にミルクを与える。この生活が丸2日間続いた。やがて宙太は、原稿用紙の上を這い回るほどに体力を回復した。
3日目の晩に連載原稿を脱した。ドッと疲れが出て、そのままぐっすりと眠ってしまった。転げ落ちるように5、6時間も眠ってしまったのである。
目が覚めると、宙太はパンツの中で冷たくなっていた。まだ息はあったが、ミルクを飲む力はもうなかった。
脇に挟んだり、口に入れたり、掌の中でマッサージをしたりしてみたが、力は戻らなかった。
息が上がるとき、チューとひとこと鳴いた。そしてそれなり四肢を胎児のように縮めて、硬くなってしまった。
私が惰眠を貪(むさぼ)っている間に、宙太は飢えたのだった。おのれの安逸のために宙太を殺してしまった。
いつまで泣いていても始まらないので、こう思うことにした。ともかくも3日間は生きたのだ、と。鼠の3日間はたぶん、「往古来今」に匹敵するであろう、と。私のパンツの中はきっと宙太にとって、「舟輿の極り覆う所」だったのであろう、と。
さきほど、書斎の窓の外の原っぱに、宙太を埋めた。雪印のとろけるチーズと、玄米の飯と、ミルクを浸した綿棒を、ティッシュペーパーの棺に入れた。目印の野菊が風に揺らいでいる。
すぐれた作家は冷徹な目を持ち、いい文章は行間を読ませるのだそうだ。
だが少くとも、死んで行く鼠の姿を描写する才能は、私にはない。
(初出/週刊現代1997年5月24日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。