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エレベーター呼び出しボタンは危険!?

都内某ホテルのラウンジで、美しい女性編集者と仕事の打ち合わせをした。

おたがいひどく予定のたてこんでいた月末で、時刻は夜の9時を回っており、用件は急を要していた。

おりしも私はパーティの帰りで、目一杯のオシャレをしていた。女性編集者は日ごろ馬喰(ばくろう)のごとき私の姿しか知らない。彼女が原稿を取りにくるたびに、私は坂口安吾状態の悲惨な書斎のただなかに蹲(うずくま)り、薄い頭髪を火焰(かえん)太鼓のごとく逆立てながら、「バカヤロー」を連呼するのであった。

馬子にも衣裳ということわざがある。パーティ帰りの私はまさかヨレヨレの作務衣を着てはおらず、薄い頭髪も意識的にショーン・コネリーを真似ており、芸能人は歯が命であるから、アパガードで真っ白に磨いてあった。待ち合わせ場所も高級ホテルのラウンジということで、「バカヤロー、いくら待ってたってへも出ねえぞ!」、などとはまちがっても言わず、「やあしばらく。待った?」、などと言うのであった。

女性編集者は某有名作家との会食の後だとかで、少し酒が入っていた。

仕事の話をおえ、べつだんの他意はなく酒を勧めた。私は例のごとくウーロン茶である。眼下には美しい夜景が撒き敷かれており、ピアノは「愛情物語」なんぞを奏でていた。

話題は自然と下世話に流れた。小説家は案外と話材に乏しいのである。しまいにはほとんど猥談になってしまい、いいかげん夜も更けたので、「じゃ、そろそろ行こうか」、と席を立った。

もちろんこの発言にもべつだんの他意はない。彼女は思いがけなく迎え酒が効いていた。で、べつだんの他意もなく肩を支えた。抱いたのではなく、支えたのである。

やがて二人はロマンチックなエレベーターの前に立った。ラウンジはホテルの中層階にあり、上は客室、下は出口である。

話がたいそうまどろっこしくなったが、実にこのタイミングで私の「思いこみ」が露見したのであった。

私はエレベーターの呼びボタンの押し方を誤解していた。ボタンが自分の意思方向を表すものだとはつゆ知らず、自分のいる場所にエレベーターを呼び寄せるものだと思いこんでいたのである。

つまりこういうことだ。何ら他意はなく1階の出口に向かおうとした私は、エレベーターの所在が階下にあることを確認して、「こっちへこい」という意思をこめて▲を押した。エレベーターの仕組とはそういうものであるとばかり思いこんでいた。

おもむろに▲ボタンを押したとたん、彼女がハッと身を固くした理由が私にはわからなかった。

「あの……私、困ります。すみませんけど、困るんです」

物言いがひどく切実であったので、てっきり仕事の話の続きだと思った。彼女が年内に原稿を欲しいというのを、私は年明けでなければムリだとつっぱねたのであった。

「え? ダメなのか。今さらそりゃないだろう、さっきはいいって言ったじゃないか」

「は……そんなこと言ってませんよォ。ダメダメ、やっぱり困ります」

「切ないことを言うなよ。俺だって忙しいんだぞ」

「それはわかります。お忙しくって、ストレスが溜まってるとか、イライラするとか、そういうのは良くわかってます。でも……やっぱりダメです。困っちゃいます」

「この期に及んでムリを言うなよ」

「ムリを言ってるのはそっちじゃないですか!」

「クソッ、なんてやつだ。よしわかった、編集長に言いつけてやる。二枚舌を使うとはけしからん」

「どうぞ、言えるものなら言って下さい。わが社はそんな下品な会社ではありません」

彼女は肩を支え続けていた私の手を、乱暴に振り払った。エレベーターはなかなかやってこない。

▼ボタンをせわしなく押しながら、彼女はフト悲しげな目を私に向けた。

「ガッカリです……まさかそんな人じゃないって思ってたんですけど。そりゃ長いこと編集者をやっていると、いろんなことがありますよ。いろんな先生にもお会いしますよ。でも、こんなのいやです。何だか仕事の続きみたいで……」

「え? ……仕事の、続き……?」

不可思議の扉が開いた。何となくたいへんな誤解が生じているということがわかったので、私はエレベーターに乗りこむやいなやあわてて1階のボタンを押した。

扉はいったん閉まり、なぜか再び開き、やがてエレベーターは下って行った。

「申しわけありません。恥かかしちゃって……」

美しい編集者は1階のロビーに下りると、そう言って深々と頭を下げた。

その夜をしおに、担当は野獣のような若者に代わってしまった。願わくは彼女がこの項を読み、私の思いこみを理解して下さることを。

(初出/週刊現代1995年12月16日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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