3年に及ぶ「ウサギ裁判」の結果は?
ご存知の通り、スコットランドにおけるウサギの地位は、アメリカのチキン並み。太古から焼く、煮る、塩にまぶして乾肉にする、さまざまな形で食卓に供されてきた。とくに好まれたのがウサギのシチューである。
たとえば、ゴルフを広めた最大の功労者として知られるスコットランドのスチュアート王家では、決まって来賓用の正餐メニューにこれが登場、1695年にフランス皇太子を迎えたときの献立には、実に五種類のウサギ料理が並べられた。
日常的に野生の肉を食べるヨーロッパでも、この珍重ぶりは奇異に思われたらしく、オランダの詩人アーテル・ネイデランドも『スコットランド紀行』の文中、次のように書いている。
「彼らのウサギに対する偏愛ぶり、尋常ならず。茂みの至るところ、罠に満ちて危険なり」
逃げ足が速い獲物だけに、味覚以上の価値が加わったと指摘する史家もいるが、養兎場の出現も膨大な需要あっての話、当時としては画期的なニュービジネスの登場だった。
さて、1780年に土地を買った商人デンプスターは、下請け業者に飼育をまかせる傍ら、さまざまな種類のウサギを買い入れて新種交配まで試みる熱の入れよう。必然、猛烈な勢いの繁殖はとどまるを知らず、檻から溢れる状態になった。
彼は多少のウサギが脱走したと語っているが、実は持て余した挙句、夜陰にまぎれて檻の扉を開け放ったと証言する使用人が現われた。彼はのちに始まった裁判の席上、次のように語った。
「親方は酒代をくれながら、こう言いました。
『家に帰るとき、檻のカギを閉め忘れてくれ。1ヵ月ほど忘れろよ』
『そんなことしたら、大事なウサギが1匹もいなくなってしまいます』
『バカ! このところ増えすぎて、肉の値は下がる一方だ。エサ代を考えてみろ、100つがいほど残せば、すぐに増える』
そこで仕方なし、少し扉を開けた状態で帰宅したところ、1ヵ月なんて冗談じゃない、ひと晩で1つの檻が空っぽになりましたよ」
この証言によって、突発的異変の真相が明らかになった。恐らく一夜にしてセントアンドリュースはウサギで溢れたのだ。
1802年には、ほとんどプレーが不可能になったばかりか、手当たり次第に毒薬をまいたため、飼い犬がバタバタ死んで損害賠償の訴訟まで起こされる事態となった。
ここに至ってクラブ側もたまらず、14人の理事が原告に名を連ねて、養兎業者3人を告訴したのである。
裁判は3年に及んだが、その間に呼ばれた双方の証人54名、まさに火花散る法廷戦争が続いた。その中にはプロの始祖アラン・ロバートソンの祖父で、セントアンドリュースのキャディ頭、ジョージ・ロバートソンによる興味深い証言もある。
「わしが1ヵ月にわたって巣穴を勘定したところ、驚くなかれ、1197個を数えた。1つの巣穴には子供も含めて5~6羽が常識、コース内に限ってさえ1万羽近いウサギがいる気配だね。もちろん、プレーはしばしば中断、このままではコースの存続さえ危ぶまれる状態だ」
まさに、オールドコースは滅亡の寸前だった。そのとき、1人の弁護士が古い記録の中から、「リンクス内で捕獲したウサギは食べてもよろしい」と書いた大司教の証文を発見。それっとばかり500人もの市民を動員して、あまねく先住民を平らげてしまった。
「本来、住む権利は彼らにある」
何人かの識者が唱えた声も、エゴ優先の耳に届かず、物言えぬ彼らは人間サマの胃袋の中に消えていった。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1934年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。