音楽の達人“秘話”

坂本龍一の印象的な言葉「日本でやれることには限りがありませんか」 音楽の達人“秘話”・坂本龍一(3)

坂本龍一の名盤の数々。左上が「美貌の青空」が収録されたソロアルバム『SMOOCHY(スムーチー)』(1995年)。上段中央は、1984年発表のソロアルバム『音楽図鑑』に未発表曲や別ヴァージョンを加えた2枚組『音楽図鑑-2015 Edition-』(2015年)

国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。音楽家・坂本龍一の第3回は、1978年秋の初ソロ・アルバム…

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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。音楽家・坂本龍一の第3回は、1978年秋の初ソロ・アルバム『千のナイフ』のリリース時や、同年結成のイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)で売れた後の80年代前半に、筆者が直接逢ったころの思い出がつづられます。映画音楽も出がけ、ソロでも世界に活躍の場を広げる前に語った貴重な言葉の数々です。

「ぼくは音楽をアートにしたい」

『千のナイフ』と題されたデビュー・ソロ・アルバムがコロムビア・レコードからリリースされた1978年、ぼくは初めて坂本龍一と逢った。第一印象はハンサムな美青年、けれどもその面構えにはどこか不敵さがあった。『千のナイフ』というアルバムは、1978年の音楽シーンに於いては、ヒット狙いと呼べる内容では無かった。ぼくはこの作品に既存の音楽シーンに対する、カウンター・パンチのような感触を感じていたので、そのことを坂本龍一に訊ねた。

“他のミュージシャンの楽曲のアレンジやキーボードでバックアップする仕事では、そのミュージシャンの楽曲や演奏を最大限に引き出すことを求められるんですね。対してソロ・アルバムというのは自己発露の場だと思う。アレンジやスタジオ・ミュージシャンと異なるのが当たり前だと思うんです。売れなくていいと言ったら語弊があるかも知れないけど、ソロ・アルバムでは自分を譲ることは絶対にしたくありません。ぼくは音楽をアートにしたい。アート~芸術というのはどれもがただちに評価されるとは限りません。メジャーで売れなければ、自主制作しても自分のアートを貫く覚悟はあります”

とても一般的には無名なミュージシャンの発言にしては大胆だと思ったのを記憶している。ソロ・デビュー時から坂本龍一の心の中では、アレンジなど頼まれ仕事とソロ・ワークが区別されていたのだ。

坂本龍一の名盤の数々。写真中央が『千のナイフ』。写真左は、大貫妙子のデビュー・アルバム『Grey Skies』(1976年)、坂本龍一と大貫妙子が共同制作したアルバム『UTAU』(2010年)

『千のナイフ』のレコーディングは“頼まれ仕事”を終えた深夜

『千のナイフ』は延べ300時間以上、スタジオ・ワークが費された。昼間は他のミュージシャンからの頼まれ仕事をこなし、レコーディングは主に深夜に行なわれたと当時の担当ディレクターから聞いたことがある。そこには一切の妥協を許さない坂本龍一のアーティストとしての姿があった。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の成功で『千のナイフ』のセールスは伸びたものの、発表当時はヒット・チャートに登場することは無かった。

もしYMOでその名が売れなければ、坂本龍一はアレンジャー&スタジオ・ミュージシャンのままだったと思う。それでも彼は頼まれ仕事をこなしながら、そこで得たギャラを費してソロ・ワークを発表し続けていたと、初めてのソロ・アルバムでのインタビューでぼくは確信する。

1978年にリリースされた坂本龍一のアルバム『千のナイフ』のレコード(右)と、1983年の日本生命CM曲「きみについて」を収録した12インチシングルレコード『Life in Japan』

「冗談気分でやったら売れちゃった」

次に坂本龍一と逢ったのはYMO時代。その間、4、5回は逢っている。ただYMO時代は細野晴臣、高橋幸宏も同席していたので、坂本龍一とだけ個別に話せることは少なかった。それでもある時、坂本龍一と個別に話せる短かい時間を得た。ぼくは売れている~人気ミュージシャンとなった現在の気持ちを彼に訊ねた。

“売れたというのは、それは良い気分です。金銭的に少しは余裕ができたので、どんな仕事でも引き受けるのでなく、自由に仕事を選べるようになったのは自分にとって嬉しいことです。YMOは細野さんのアイデアにぼくと幸宏さんが誘われて、ある意味、冗談気分でやったら売れちゃった。まぁ、こんなラッキーも人生には転がっているということを知ったので良い勉強になりました”

そう坂本龍一は言っていた。

YMOの名盤の数々。右下は坂本龍一も参加したスネークマンショーの2作目のアルバム『死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対!』

売れても「義理堅い奴」

YMOで売れた坂本龍一はニューヨークに移る前は、六本木など夜の街でよく遊んでいた。ぼくも六本木の深夜カフェで偶然出くわして、誘われるがままに雑談をしたこともある。かなり彼は酔っていた上に、美女を従えていた。

“日本でやれることには限りがあると思いませんか?YMOもそうだったけど、何か世界へ発信することをしたい”

その時、そう語っていたのが印象的だった。その頃、YMOはすでに散開寸前だったが、映画『戦場のメリークリスマス』、『ラストエンペラー』などの映画音楽で2度目のブレイクをする前だった。

YMOのオフィスは後にMIDIレコードを設立した故大蔵博が社長をしていた。YMO散開後、引く手あまただったろう坂本龍一は、設立間もないMIDIレコードと契約した。

ぼくと大蔵博は公私共に交際していた。

“教授は義理固い奴なんだよ。他社からの誘いがあっても、ぼくを選んでくれた。そういう武土みたいなところがある人なんだ”

ある時、坂本龍一MIDIレコードの関係について訊ねた時、そう大蔵博は語っていた。

ちなみに坂本龍一が“教授”と呼ばれるようになったのはYMO時代からで、命名したのは高橋幸宏だったとされるが定かでない。

坂本龍一の名盤の数々

岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)。

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