国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」は今回から、シンガー・ソングライターの南佳孝を取り上げます。作詞家でミュージシャンの松本隆のプロデュースにより1973年にアルバム『摩天楼のヒロイン』でデビュー。79年に発表した「モンロー・ウォーク」は現在も夏にはどこかで流れているような名曲です。実は筆者は、南佳孝とデビュー前からの知り合いでした。今から半世紀以上も前、青春時代の思い出です。
芸能人も多く住んだ「久が原」
東京は五反田と蒲田を結ぶ池上線という“東京ローカル”とでも呼べそうなローカル電車が走っている。現在はステレンス製のモダンな車両に変わったが、昭和の時代は暗い緑色の3両編成で、いかにも東京ローカルという趣があった。その駅のひとつに久が原がある。高台の久が原は大田区内では田園調布と並ぶ高級住宅街だ。久が原には財界人や芸能人も多く住み、地下にボーリング場、プールなどもある豪邸もあった。
大田区の三島由紀夫などが住んだ“馬込文土村”に近い場所に生まれたぼくは、両親が離婚すると、母とぼく、弟の3人で久が原の隣駅となる千鳥町(ちどりちょう)の4畳半ひと間のアパートに越し、15歳で家を出るまで、そこで生活した。独学で高校に入ったものの、勉学はそっちのけで、 夜遊び、読書、音楽などに夢中だった。
大田区の商店街にできた喫茶店
久が原からの長い坂を降りるとそこは千鳥町の商店街だった。B.B.(ベベ)という喫茶店が久が原からの坂を降りた場所にできたのは1968年頃だ。白を基調にしたシンプルな内装は当時としてはモダンで、カルチャーを先取りした地元の人たちがいつも集まっていた。
オーナーのS子さんはぼくより6歳年上のちょっとフランス・ギャルに似たコケティッシュな人だった。ジャズ、ポップス、文学などの話が飛び交い、S子さんの魅力も手伝って店はいつも活気に満ちていた。
S子さんは美術大学を出ると、ナホトカ航路でヨーロッパに渡り、帰国後はフランス映画社に就職した。伊丹十三と席を並べてイラストを描いていたという。就職とほぼ同じ頃、千鳥町や久が原付近に文化的サロンのような場所を作りたいとB.B.を開店したのだった。
そんなS子さんに憧れていたのだろうか、午前の開店早々、カウンターでギターをつま弾きながらボサノヴァをいつもスキャットしている青年がいた。久が原に住んでおり、生まれはぼくと同じ1950年だが、1月9日生まれと早生まれなので1学級上、明治学院大学に通っていた無名時代の南佳孝だった。淹れたてのコーヒーの香り、生ギターのスキャット、午前の陽光。今でも忘れられない光景だ。当時の青山などにも負けていない文化サロン。それがB.B.だった。
S子さんは才能豊かな方で、1969年に渋谷区と目黒区の区境を通る旧山手通り沿いに代官山ヒルサイドテラス(第1期)が竣工されると、スカウトされて設計者である槇文彦氏のオフィスに入社して、B.B.はいつの間にか消えてしまった。ぼくの遊びの拠点も青山や赤坂に移っていった。
S子さんと電車でバッタリと出逢ったのは1974年末、クリスマスが近づいた頃の池上線だった。電車の中で思いもよらず話が弾み、再会を約束できた。B.B.に通っていたのは、ほとんが年上だった常連たちの話を楽しむだけでなく、S子さんの魅力も大きな理由だった。