路上駐車のクレームで郊外に移転
ふくちゃんラーメンはその後、口コミと、様々なメディアにも取り上げられ、常に1時間~2時間待ちの長蛇の列と、ふくちゃんラーメンを目指してくる車で渋滞が出来ていました。繁盛店の宿命と言うべきか、行列が長くなるにつれて路上駐車による近隣からのクレームが出始めたのです。
この時すでにふくちゃんは、博多を代表するラーメン店として、福岡では知らないものがいないほどの地位に君臨していました。しかし、日に日にクレームは増え、次第にそのクレームは順伸さんにとってストレスへと変わっていきました。
”こんな状態じゃ美味しいラーメンが作れない”
悩んだ末に順伸さんが出した結論は「移転」でした。新横浜ラーメン博物館が開業した1994年のことです。百道は人通りも多く、ラーメン店をやるには好立地であり、その上20年かかって築きあげた常連さんもいます。
そんな好条件があるにもかかわらず移転を決断したのは、順伸さんのラーメンにかける想い、つまりラーメン作りに集中できないからでした。順伸さん曰く「結局お客さんがたくさん来てくれても、美味しいラーメンを提供できなければお客さんは離れてしまいます。であれば美味しいラーメンが作れる環境に移転するのが一番いい方法なのだと思いました。あのままやっていれば、いずれお客さんは素通りしてしまいますよ」と。
そして選んだ移店先は博多から車で30分ほどかかる早良区田隈(たぐま)の閑静な住宅街でした。
この場所は飲食店をやるにはタブーといわれた立地で、当時近くには電車も通っておらず(2005年に地下鉄が開通)、車かバスで行くしか方法はありませんでした。素通りする人すら歩いていない言わば、ふくちゃんに行く目的がないと行かない場所なのです。しかし二代目夫婦はこの場所で新たにふくちゃんをスタートさせたのです。
移転した直後はさすがにお客さんの数は減りましたが、ふくちゃんの味に魅了された以前の常連さんが移転を知り、次々と押し寄せてきたのです。
ふくちゃんをこよなく愛する常連さん曰く「ふくちゃんが山の中に移転しても俺は食べに行くよ」。
こうしてふくちゃんは「素通りさせぬ店」から「ラーメンをわざわざ食べに通う店」へと変わっていったのです。
突如訪れた世代交代
現在、本店を切り盛りしているのは順伸さんの長男であり三代目の伸一郎さん。田隈へ移転したころから店を手伝うようになり様々な葛藤を超え、大学を卒業すると同時にふくちゃんを継ぐことを決心しました。
頑固一徹の職人であった順伸さんは、伸一郎さんに対しても一切やり方を教えませんでした。「見て覚える」という昔ながらの職人のやり方で、伸一郎さんは見よう見まねでラーメン作りを覚えました。
そんなある日、店を仕切っていた順伸さんが突如倒れました。いずれ来る世代交代が最悪の事態で訪れました。2003年の1月の事でした。
その2日後「店を開けて、あなたがやって」と、姉たちに促されるまま、伸一郎さんは父親の定位置であるカウンター向かいの右奥で麺を上げ、ラーメンをつくりました。
伸一郎さん曰く「父の隣で10年近く一緒にやって来ましたが、突如父の定位置をやることになり、もの凄い重圧でした。目の前にいるのは長く通われている常連さんばかり。正直お客さんの顔を見ることすらできないほどの緊張でした。最初の1~2年は常連さんからお叱りの言葉もいただきました。しかし、続けていくには私自身がお客さんから信頼されなければならない。そのために自分が出来ることは何だろうと真剣に考えました」
順伸さんが逝去して18年。父親の定位置に立ち始めて20年の月日が経ちました。そして伸一郎さんが出した答えは「お客さんの表情から察しながら、そのお客さんのために一杯ずつ想いを込めてラーメンを作ること」でした。