浅田次郎の名エッセイ

浅田次郎をダービー惨敗の失意から救った「ボクサーブリーフ」の誕生

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。

この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第75回は「折衷について」。今は見慣れたあるものが、世に出現したばかりの頃のお話です。

買い物マニアが思わず声をあげた逸品

第64回日本ダービーを、あろうことかケツから4頭ピッタリ的中させてしまい、尾羽打ち枯らして競馬場から逃げ帰った。

今回は請われるままやたらあっちこっちの雑誌や新聞に予想を開陳したので、被害者もさぞ多かろうと思う。誌面を借りて深くお詫びをする次第であるが、実のところ私は鉄面皮なので口で言うほど反省はしていない。

問題は他人の損より自分の損である。45年間、これを座右の銘として生きてきた(過日サイン会で座右の銘の揮毫(きごう)を頼まれたので、つい『無私』と書いちまったが、ウソである)。

そう、問題は他人の損より自分の損なのである。自分の損得のわからぬような人間は、他人の損得をあれこれ考える資格はない。そういうやつを「お節介」という。

ということは、私にとっての当面の問題はビッグサンデーおよびゴッドスピードとともにターフのもくずと消えたお金であった。

こんな馬券あるわけねえよなあ、と思いつつ、気がついたら③─⑨を15,000円も買っていた。オッズを見ると何と1591倍もついており、もし的中すれば私はわずか2分30秒かそこいらの間に、2387万円の大金を手にするのであった。

ぼろい、と思った。だが何のことはないその2分30秒後、私はぼろぼろになってしまったのであった。

競馬で身を滅ぼす人間は多い。しかし馬券で身を滅ぼす人間は案外と少い。

これはどういうことかと言うと、競馬をすることによって日ごろの経済感覚まで見失ってしまい、馬券を買うつもりであらぬ無駄遣いをするのである。こうした散財が日常化すると、競馬の勝ち負けはともかく生活はたちまち破綻してしまう。

わかっちゃいるのだが、かくいう私ですらもしばしば競馬場の帰途には馬券を買った気になって、全然正体不明意味不明用途不明の買物をしてしまう。

まずいことに、今をさかのぼること数年前、府中駅前に伊勢丹がオープンしてしまった。大国魂(おおくにたま)神社の参道を、うなだれ、あるいはスキップしつつ駅に向かえば、どう歩いても伊勢丹に突き当たる。

かつて本稿でも述べたが、私はお買物マニアであり、知る人ぞ知るデパート評論家である。したがって競馬場の帰り途にデパートがあるということは、時と場所と精神状態と趣味とがいっぺんにまぐわってしまうわけで、ここに毎週悲惨な散財が行われることとなった。

さて、このダービー当日、おそらくデパート側の戦略だとは思うのであるが、8階催事場において「男のバーゲン」なる催物が開かれていた。

時と場所と精神状態と趣味のうえに「男のバーゲン」がまぐわうのであるからたまったものではない。まぐわいついでに無節操な形容をいたせば、まさしく乱交パーティ会場に全裸で躍りこむようなものである。

で、ほとんど歩くキンタマと化した私は、欲望のおもむくまま、あれもこれもこれもあれもと、店員が怪しむほどの買物をしちまったのであった。

結果は、その過半がおそらく一生涯着ることはないであろうと思われるものであった。

だが、それらの中で決して悔いのない逸品がひとつだけあった。下着コーナーのワゴンの上でそれを発見したとき、私は思わず「おお」と声を上げたほどである。

品名を「ボクサーブリーフ」という。

トランクスとブリーフの奇蹟的折衷

何とすばらしい命名であろうか。

つまりこれは「ボクサーパンツ」すなわち「トランクス」と、「ブリーフ」との折衷名なのである。商品名の良さとは、いかにその名称だけで特性を表現するかにかかっている。その点「ボクサーブリーフ」は、それがどのような形状か、どのような機能か、どのようなはきごこちかということまで、商品名からほぼ正確に類推することができるのであった。

この命名のすばらしさは、近年の大傑作であるところの、エチケット袋「ゲロゲロ」をはるかに凌駕している。

さて、私はかつて本稿において「ブリーフ」と「トランクス」の原理について述べた(編集部注・既刊文庫『勇気凜凜ルリの色②四十肩と恋愛』P.192・毀誉褒貶について)。

男子たるもの「ブリーフ」派か「トランクス」派かという議論は、単なる趣味嗜好を超越して、ほとんど信奉せる宗教論争に近い。しかもそれぞれの支持者はほぼ真ッ二つに分かれ、たとえば幕末期における「勤皇か佐幕か」「開国か攘夷か」の様相を呈している。

かくいう私は「トランクス」派である。理由としては、①通気性に富む。②ズボンにパンツの線が出ない。③色柄が豊富でファッショナブルである。④尿道を圧迫しない。⑤ジジむさくない。

といった点が挙げられる。

しかしながら、「ブリーフ」の利点も捨て難い。

①緊迫感があり、仕事に身が入る。②清潔である。③セクシーである。④吸湿性、保温性に富む。⑤いかにも日本男児という感じがし、いさぎよい。

私がかつてしばしば宗旨改めをしてきたわけは、かように両者それぞれの利点が対極的であったからなのである。

もちろん「トランクス」派である現在も、「ブリーフ」派の主張はよく理解しており、心ひそかにうらやむこともある。

私がバーゲン会場のワゴンの上に「ボクサーブリーフ」を発見して狂喜した理由は、これでおわかりだと思う。そう──「ボクサーブリーフ」は、その名称の明らかに語るごとく、「トランクス」と「ブリーフ」の鮮やかなる折衷だったのである。

そんなものは信じられんという向きに、この奇蹟的商品の説明をする。

まず、生地は薄手のニット・ジャージ、すなわちメリヤスである。元来「ブリーフ」は厚手のメリヤスと決まっており、「トランクス」は布地縫製品であるから、あたかも女性用ショーツのごときニット・ジャージの採用は革命的である。

次に形状は、基本的にはトランクス型であるが、伸縮性のあるニット・ジャージ素材により、腰部と腹部には緊張感があり、裾は開放されているので通気性は良い。

ファッション性に関して言えば、プリント柄はないが、黒無地、グレー無地、ヘアライン(ごく細いストライプ)、緑色横縞等があり、知らん顔をしていれば犬の散歩程度ならそのままでも可能と思われる。

ことに黒無地などは、ファッショナブルなばかりかどことなく職人の股引、お祭りサルマ夕等を彷彿とさせ、日本男児のいさぎよさの克明なる具体化と言っても決して過言ではない。

どうか前記の「トランクス」「ブリーフ」のそれぞれの利点を読み返していただきたい。究極の折衷が実現されているのである。

未だ不明の部分といえばただ一点、はたしてこれがセクシーであるかということであろう。

少くともファッショナブルでチャーミングな印象はある。しかしそういう美的感覚は往々にして性的魅力とは対立する。世の女性たちの意見を広く求めたいところであるが、肝心の中味がセクシーではないのでこれは難しい。

しかし、風呂あがりになにげなく娘の前を横切ったところ、「そのパンツ、かわいいじゃん」という願ってもない賛辞が返ってきた。セクシーであるかどうかはともかく、悪印象を与えぬことは確かであるらしい。

かくて私は、夢の「ボクサーブリーフ」の購入によって、ダービー惨敗の失意から救われた。

黒無地、グレー無地、ヘアライン、緑色横縞の各色を山のように持ち帰り、ただいまも着用している。

快適である。では日本技術の栄光をぎっしりとトランクに詰め、これよりミラノへと旅立つ。行ってきまーす。

(初出/週刊現代1997年6月21日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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