今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。…
画像ギャラリー今から20数年前、ゴルフファンどころか、まったくゴルフをプレーしない人々までも夢中にさせたエッセイがあった。著者の名は、夏坂健。「自分で打つゴルフ、テレビなどで見るゴルフ、この二つだけではバランスの悪いゴルファーになる。もう一つ大事なのは“読むゴルフ”なのだ」という言葉を残した夏坂さん。その彼が円熟期を迎えた頃に著した珠玉のエッセイ『ナイス・ボギー』を復刻版としてお届けします。
夏坂健の読むゴルフ その25 「眺めのいい部屋」より
ロイヤル・ノードッグの威厳に満ちた18ホール
全英オープンが開催されて間もないころ、多分1862年の関係者会議の席上だろうと言われるが、ひとつの申し合わせが行われた。これぞ「掟」と呼ばれるスコットランド特有の「鉄の約束」であり、いっぺん決めたが最後、頑固な彼らは太陽が2つに割れても約定だけは死守するのが普通である。
その申し合わせとは、次のようなものだった。
「われらが熱愛してやまない偉大なるゲームは、海と陸の接点、即ち砂丘地帯から誕生したもの。従って由緒正しきゲームは、常にリンクスで行われなければならない」
その日から現在まで、全英オープンは何があろうと海岸線に沿って開催される。1996年の舞台となるロイヤル・リザム・アンド・セントアンズが最も内陸的コースといわれるが、それでも海岸から約1マイル離れているにすぎない。
スコットランド北部の町、インバーネスから北に走ること約60マイル、絶景のエンボ湾岸に位置するロイヤル・ドーノックの威厳に満ちた18ホールは、当初から全英オープン開催の有力候補だった。数千万年に及ぶ海底の隆起によって形成された複雑怪奇、予測不能のアンジュレーションに加えて、一面に密生するゴース、ブルーム、ヒース類がショットの曲げを許さず、春から初夏にかけて黄色い花を一面に咲かせるバターカップの可憐な茎までが、いざ打とうとすると冷淡な美女に似て芯が強く、安易なショットを跳ね返すのだった。
1879年ごろ、この地に現われた史上最初のゴルフ指南書『The Art of Golf』の著者、サー・ウォルター・シンプソンと、『宝島』『ジキル博士とハイド氏』で知られる作家のロバート・スティーブンスンは、3日間にわたってアンジュレーションと戯れ、ラフの深さにしたたか打ちのめされて悄然と引き揚げるが、ドーノックに対する畏敬の念はいや増すばかり、とくにシンプソンはこう書き残している。
「全英オープン最大の欠点は、開催コースにドーノックの名がないことだ」
1906年には、ハリー・バードンとジェームズ・ブレードの両巨頭がやって来て凄絶な一騎討ちを演じると、翌年にはバスク人として初めて全英オープンに勝ったアルヌー・マッシーが、バンカーショットの天才とうたわれたジェームズ・ハードと、これまた歴史に残るデッドヒートを演じた。名勝負の舞台として、ドーノックの名声は高まる一方だった。
さらに名著『パーフェクト・ゴルファー』の筆者であり、名設計家でもあったH・N・ウェザレッドがコースの近くに別荘を構えると、息子のロジャー、娘のジョイスにこのコースでゴルフの手ほどきをする。やがて成長したロジャーは全英アマ選手権に優勝、全英オープンでも2位に入る名選手となるが、さらに凄かったのがジョイスである。
19歳のとき、初めて参加した全英女子選手権で、当時「ゴルフ界の女王」と呼ばれたセシル・リーチと決勝で対戦した彼女は、すべてのアプローチがピン30センチ以内に密着する妙技の連続で圧勝すると、以後イングランド内で行われた公式競技に限って33勝無敗、28歳で引退するまでの成績が38勝2敗とは絶句するしかない。
それもこれも、父親の指導が出色だった。彼は2人の子供に対して、1メートルの短いパットが百発百中、真ん中から入るまで練習を休むなと命じた。やがて距離は2メートル、3メートルと長くなり、グリーンエッジに至ったところでランニングの習得と、ピッチエンドラン、バンカーショットに取り掛かった。打つ距離はピンから次第に遠ざかり、ようやく最後にドライバーが手渡された。父親はこのように書いている。
「最初から長いクラブを振り回した人は、ついにデリケートなショットが会得できないままに終わる。ゴルフは短い距離から覚えるのが良策、私はわが子に実践して、その意を強くした」
ウェザレッド一家の出現によって、ロイヤル・ドーノックは「北の聖地」に昇華したと綴る史家もいる。
まるで神の国でプレーしているよう
ゴルフ史編纂で知られるモントローズ卿、ゴードン卿の記述によると、1616年ごろ、早くもここではゲームが行われていた証拠もある。
要するに、市民広場の片隅で打球事故におびえながらプレーするセントアンドリュースとは段違い、地形、環境、威厳、どの部分を比較してもドーノックのほうが上だと、2人の卿は遠回しに表現する。これはスコットランドにあって、山ほどの勇気が要求される発言である。
最近ではトム・ワトソン、ベン・クレンショーが相次いで入会した。ワトソンはこう語っている。
「五大陸の中で最良のコースの一つ。私はドーノック以上のコースでプレーしたことがない。まさに自然が創造した最高傑作だ」
一方のべン・クレンショーは、プロの中でも屈指の学究肌、かつゲームの哲学部分を熱愛する男だけに、惚れ込み方も尋常ではない。
「早朝の霊光も神秘のひと言に尽きるが、とくに素晴らしいのが薄暮の時間だ。私は神の国でゴルフをしているように思う。ドーノックには、いまなおゴルフの『無垢』が息づいている」
コースの全長は6514ヤード、フロントティから6185ヤード、パー70である。今世紀初頭、「ゴルフ三巨人」の1人、ジョン・ヘンリー・テイラーが招かれて多少の改修が行われた。彼は丸1週間というもの、ただ黙々とコースを歩き回るだけだった。それから乾坤一擲、各ホールの1ヵ所だけに手を加えて立ち去った。ロジャー・ウェザレッドによると、彼の施術は名医のメスに似て切れ味鋭く、その瞬間からコース攻略が一層至難になった。
たとえば「サザーランド」の愛称を持つ12番ホール、507ヤード、パー5では、3打目のピッチショットに、
「煙が出るほどの急ブレーキ」
が要求される。さもないと、ボールはグリーン背後の深いラフに潜り込んでしまうのだ。あるいは「フォクシー」と呼ばれる14番、445ヤード、パー4では、第1打目に球足の長いドローボールを、2打目には弾道の高いフェードボールを放って、ようやく砲台グリーンに届く按配。まさにゴルフは自然との格闘技だと思い知らされる。もちろん、ここでは常に海風が強く吹きつけると覚悟しなければならない。
これほどの名コースが、なぜ全英オープンの会場に選ばれないのか、その理由は明快である。何しろ人口1000人に満たないドーノックの町まで、ロンドンから600マイルもの旅が強いられるのだ。
「遠すぎる。あまりに遠すぎる。だからこそ最後のリンクスでいられるのだろう」
ジョン・ヘンリー・テイラーの呟きが、いまだ聖域健在のすべてを物語っている。イギリス全土には2200ものコースがあるが、ドーノックの先には2つの荒涼たるリンクスが横たわるだけ、まさに北限の苛酷な楽園と呼ぶにふさわしい。
私はいま、1番ティから50ヤードしか離れていないロイヤル・ゴルフホテルの203号室にいる。この角部屋からはコースの全景と、彼方に広がるエンボ湾が一望されて絶景の極み。叶うものなら、死ぬまで動きたくない。
(本文は、2000年5月15日刊『ナイス・ボギー』講談社文庫からの抜粋です)
夏坂健
1936年、横浜市生まれ。2000年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」に唯一アジアから招聘された。また、トップ・アマチュア・ゴルファーとしても活躍した。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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