この皿の中にはニーチェの世界が存在している
マーク・トウェーンといえば、ミシシッピー河の水先案内人の言葉で「水深2尋(ひろ)!」という意味である。アメリカが生んだ希代のユーモリストらしいペンネームである。
『トム・ソーヤーの冒険』の著者も若いころはひどい貧乏で、20歳ごろには20回目の仕事にミシシッピー河で水先案内人をしていた。本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズのマーク・トウェーンがシカゴのレストランで食事をしたとき、同席したのはアン・グレームという女性ジャーナリストだった。
アンによると、トウェーンは空腹でいくらか気が立っている様子だった。フランス料理店のメニューを見ながら矢継ぎ早に注文するその品数に彼女は仰天した。
やがて料理がやってきてもう一度びっくりした。トウェーンはあっちの皿、こっちの皿、この皿はあっちへやって、あれをここに入れて、などと独り言をいいながら食卓の上で障害物レースをはじめたのだった。合計で9皿あった料理は一緒にされて3皿にまとめられた。
「これでよし、と」
ようやく満足げにひとりうなずいてから、トウェーンはおもむろに食事をはじめた。3つの料理が1つになった皿の上の光景に、彼女は胸が悪くなってきた。
「あのう、ミスター・トウェーン、1つうかがってもいいでしょうか?」
「私の食べ物のことかね?」
トウェーンは先廻りしていった。
「私が考えたところでは、コックがその日の気分次第で作ったものを全面的に信頼して食べるのは危険な賭けというものだ。彼らが作るのは単なる二次的加工品にすぎない。そこで私はそれをもう一度加工して完成させているというわけさ」
皿の上をゆび指しながら、トウェーンは彼女に説明した。
「たとえばここにはコールド・ビーフとデザートの熱い煮栗とグリーン・サラダが入っている。わかるかね? この皿は熱の対照によって完成されている。熱いものと冷たいものが交互に作用して味覚を新鮮なものにしてくれる」
「この皿には仔牛肉のシチュー、フライド・ポテト、カラメルをまぶしたバター・ライスが入っている。これは堅さの対照がテーマになっている。カリカリしたものと、ドロドロしたものが共存すると、人をおどろかせる味覚芸術が誕生するものだ」
「そしてこの皿にはコール・スロー(千切りのサラダ)とマッシュ・ポテト、それにレアのステーキが入っている。ここでは本質の対照を問題にしているのだ。ニーチェがいうように、この世には異なるものが必要とされるわけだが、まさにこの皿の中にはニーチェの世界が存在している。わかったかね?」
そういってからトウェーンは、ヘドロのような皿に顔を突っ込んでいったのだった。
(本文は、昭和58年4月12日刊『美食・大食家びっくり事典』からの抜粋です)
夏坂健
1936(昭和9)年、横浜市生まれ。2000(平成12)年1月19日逝去。共同通信記者、月刊ペン編集長を経て、作家活動に入る。食、ゴルフのエッセイ、ノンフィクション、翻訳に多くの名著を残した。その百科事典的ウンチクの広さと深さは通信社の特派員時代に培われたもの。著書に、『ゴルファーを笑え!』『地球ゴルフ倶楽部』『ゴルフを以って人を観ん』『ゴルフの神様』『ゴルフの処方箋』『美食・大食家びっくり事典』など多数。
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