朝鮮通信使がやってきたことに、秀吉は…
九州征伐を終えた秀吉は、対馬を治める宗氏の所領を認めるいっぽう、李氏朝鮮に攻め入ろうとします。対馬は山地が多く、農耕に向きません。対馬は李氏朝鮮との貿易によって生計を立てていましたから、宗氏は秀吉に、考えを改めるように説得します。いっぽうで宗氏は、李氏朝鮮に秀吉のもとへ使節を出すよう要請し、天正18(1590)年、朝鮮通信使がやってきます。表向きは秀吉の天下統一の祝賀ですが、朝鮮側としては、侵略の意志がほんとうにあるのかを知りたかったのです。
秀吉は、本来なら朝鮮国王が来日して祝賀を述べるべきだと考えていましたが、国書を携えてきたことで、朝鮮は日本に服従したものと考えました。秀吉は李氏朝鮮の使者に「征明嚮導(せいみんきょうどう)」を求めます。これは、「明を攻める際に先導を務めよ」という意味です。もちろん、李氏朝鮮は明の朝貢国であり、日本に服従するはずがありません。板挟みにあった宗氏は「征明嚮導」から「仮道入明(かどうにゅうみん)」と言葉を和らげて、李氏朝鮮側と交渉します。つまり「明に討ち入る際は道を貸せ」ということにしたのです。それでも、李氏朝鮮側は秀吉が本気で攻めてくるとは思っておらず、もちろん「仮道入明」も拒否します。李氏朝鮮からの回答がなく、業を煮やした秀吉は、いよいよ朝鮮出兵の準備を進めました。
豊臣秀次に関白の座を譲り、「太閤」と呼ばれて
天正19(1591)年、最愛の子鶴松が亡くなります。落胆した秀吉は、関白の座を甥の豊臣秀次に譲りました。関白を退いた人物の尊称が「太閤」で、以来太閤秀吉と呼ばれます。
そして秀吉は渡海を考え、玄界灘に面した朝鮮半島まで最短距離の半島上に、巨大な城を築きました。縄張りを行ったのは黒田官兵衛。九州各地の大名に協力させ、大坂城に匹敵する17万平方kmの敷地を持つ巨大な城が、あっという間にできあがりました。天守は金箔瓦を頂く五層七重で、海からも輝いて見えたといいます。また、160を超える諸大名の陣屋が置かれ、京都を凌ぐ賑わいだったと伝えられます。現在は礎石が残るだけですが、ほとんどの大名の陣屋があったわけですから、復元整備が進めば、大人気になるでしょう。