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朝鮮との関係修復に動いた家康

さて黒田官兵衛は、文禄の役で渡海したものの、石田三成とそりが合わず、勝手に名護屋城に帰還してしまったため、秀吉の叱責を浴びます。官兵衛は頭を丸め、如水を名乗りました。また家康は、この戦いには理がないと考え、結局海を渡りませんでした。名護屋城の陣屋では、『吾妻鏡』を読んで過ごしたといいます。吾妻鏡はご存じのように、鎌倉時代の初代将軍源頼朝から、6代将軍宗尊親王までの将軍記です。後に大坂夏の陣の際、豊臣秀頼を助命しなかったのは、平清盛が源頼朝や義経を助命したことが、結局自分の首を絞めたという故事を学んだためともいわれます。

家康は、秀吉が亡くなるとすぐに名護屋城を破却させるなど、朝鮮との関係修復に動き、江戸幕府は鎖国後も、対馬藩を通じて李氏朝鮮との貿易を続けます。このあたりの視野の広さが家康の魅力といえるでしょう。家康は決して鎖国論者ではありませんでした。鎖国が始まったのは、三代将軍家光の時代です。

名護屋城跡から玄界灘を望む  mtaira@Adobe Stock

【名護屋城】
天正18(1590)年に小田原城を攻略し、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が朝鮮出兵の本営として築城したのが名護屋城だ。縄張りは黒田官兵衛、石垣普請は加藤清正、九州の諸大名を動員し、わずか5カ月で完成したという。天正20(1592)年完成、金箔瓦を頂く五層七重の天守を持つ本丸のほか、多数の曲輪を持ち、総面積17万平方kmという大坂城と並ぶ巨城だった。160もの大名が集まり、10万人以上の城下町ができあがったが、慶長3(1598)年秀吉が没すると、日本軍は朝鮮半島から引き揚げ、名護屋城も廃城になり、用材は唐津城に使われ、大手門は仙台城に移されたとされる。さらに島原の乱後に使用されることを恐れ、徹底的に破却された。

■佐賀県立名護屋城博物館 ※名護屋城跡に隣接
入館料:無料(特別展は有料)
開館時間:9~17時
休館日:月曜日(月曜日が祝休日の場合はその翌平日)、12月29~1月3日
住所:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3
電話:0955-82-4905

【豊臣秀吉】
とよとみ・ひでよし。1537~1598年。天正18(1590)年に天下統一を果たした後、明国の征服を目指し、朝鮮半島に出兵したのが文禄元(1592)年の文禄の役と慶長3(1598)年の慶長の役だ。明国征服の暁には北京に時の後陽成天皇を移すとされた。もともと明国への進出は織田信長が考えていたものだが、秀吉は名護屋城を作り、日本から16万人もの大軍を送り、朝鮮、明国連合25万人と戦った。これは16世紀における世界最大の戦いとされる。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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