1989年にデビューしたトヨタの初代セルシオは、高級車の新たなスタンダードを作った名車です。その登場にベンツ、BMWも震撼としました!!
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第16回目に取り上げるのは、初代トヨタセルシオだ。
日本メーカーに高級車は作れない!?
1980年代の世界最大の自動卯車マーケットの北米市場において、日本車は大人気。貿易摩擦問題により日米関係に影響が出るほどだった。日本車が売れた理由は、『安くて壊れない』というもの。あくまでも大衆車として人気となっていた。
北米における高級車マーケットは欧州車がメインで、特にメルセデスベンツ、BMWがそのほとんどを占めていた。安くて壊れないことがセールスポイントの日本車には高級車マーケットは無理、付け入るスキはないと考えられていたのだ。
ホンダ、トヨタ、日産が相次いで参入
そんな状況下において日本の自動車メーカーでいち早く高級プレミアムブランドマーケットに参入したのがホンダで、ホンダブランドよりも高級なアキュラブランドを立ち上げ1986年アキュラレジェンド、アキュラインテグラを発売開始した。
それに対しトヨタは1989年1月にレクサスブランドを立ち上げ、ES、LSの2車種を北米で発表して世界が注目。新参のLEXUSに対し、アメリカの他業界の企業から名前が似ているとして難癖をつけられるなどすったもんだはあったが無事解決。
一方日産は、1989年11月にインフィニティブランドで高級車マーケットに新規参入した。奇しくもほぼ同時期に日本のビッグ2が足並みを揃えたかたちとなった。
日本のビンテージイヤーの主役
トヨタが社運をかけて挑んだレクサスのフラッグシップサルーンがLSで、そのトヨタ版が初代セルシオだ。LSは北米で1989年8月から販売を開始し、その2カ月遅れの10月に初代セルシオが日本でデビューを飾った。
スバルレガシィ(2月)、日産180SX(4月)、日産フェアレディZ(7月)、日産スカイラインGT-R(8月)、トヨタセリカ(9月)、ユーノスロードスター(9月)、トヨタMR2(10月)、日産インフィニティQ45(11月)などなど、1989年は日本車のビンテージイヤーと呼ばれるが、初代セルシオは埋もれるどころか存在感を見せつけた。
東京モーターショーで一般公開
初代セルシオは、デビュー直後に開催された東京モーターショー1989で一般にお披露目されるかたちとなった。モーターショーの主役はコンセプトカーで、トヨタブースで言えば4500GTが主役を張っていたが、初代セルシオの周りは、話題の高級車をひと目見ようと黒山の人だかり。当時の東京モーターショーは、景気がよくクルマが盛り上がっていたこともあり、どのブースも長蛇の列ができカタログをもらうだけで30~1時間待ちというのはザラだった。もちろん初代セルシオもそうだった。
セルシオはレベルが違う
トヨタの高級車といえば、ショーファーカーのセンチュリーを除けば、クラウンだ。「いつかはクラウン」のキャッチフレーズでユーザーを魅了。カイユいところに手の届く至れり尽くせりの装備類も、ユーザーの虚栄心を巧みにくすぐってきた。
しかしクラウンが日本人のためのドメスティックカーなのに対し、初代セルシオはグローバルカーということでクルマ作りは根本から違っていた。クラウンのライバルが日産シーマ、セドリック/グロリアなのに対し、セルシオはメルセデスベンツEクラス、Sクラス、BMW5シリーズ、7シリーズ、ジャガーといった欧州の高級セダンなのだ。
クラウンが日本での使い勝手、車庫事情を考えて全幅が広すぎないようにと1700mmにこだわってきたのに対し、初代セルシオはそんなのお構いなしで、全幅は当時としては異例に広い1820mm。高級車としての快適性、室内のユーティリティ、運動性能を実現することにプライオリティが置かれていた。
デビュー時はもう完成していた
クルマ、特にブランニューモデルの場合、デビュー時のネガを4~5年のモデルサイクルの間に潰して熟成させていく、というのが常套手段だが初代セルシオはデビューした時から自動車評論家の評価はものすごく高かった。もちろん細かな点は改良を受けて熟成されたのだが、デビュー時にほぼほぼ完成されていた。
デザインは保守的過ぎて個性がない、という声もあったが、高級車とわかりやすく安心感のあるデザインはユーザーに好評だった。
それに対し日産は初代セルシオの約1か月後にインフィニティQ45をデビューさせ、セルシオに対抗したが、残念ながら販売面ではまったく相手にならず。走りに振った高級セダンというコンセプトでアクティブサスを搭載するなどチャレンジングだったが、難解なデザインと完成度の低さがその要因だったと思われる。
セルシオは特別なクルマ
トヨタはLS400(初代セルシオ)で高級車マーケットに参入するにあたり、プラットフォーム、エンジン、トランスミッション、サスペンションなどすべてを新規で開発。4L、V型8気筒DOHCエンジンは、セルシオがデビューする前にクラウンに搭載されたが、これは「セルシオが出てもトヨタはクラウンを粗末に扱いません」というトヨタのクラウンオーナーに対する配慮だろう。このあたりはうまいなぁ、と感心する。
トヨタがこだわった『源流主義』
初代セルシオは『源流主義』のもとに開発が進められたのは有名だ。初代セルシオは、その静粛性の高さで、ベンツ、BMWを震撼とさせたのだが、そのカギが『源流主義』だ。
遮音材などを使うことによって静粛性を高めるのではなく、音の出る源流にさかのぼって対策を施し、出る音自体を小さくするというものだ。
初代セルシオはエンジン、トランスミッション、サスペンション、ボディ、インテリアなどすべての点で『源流主義』を徹底して異次元の静粛性を手に入れたわけだ。走行中の風切り音などを低減させるためにエアロダイナミクスにこだわったのも『源流主義』の一環だ。
トヨタのクルマ作りを変えるきっかけとなった
1987年にトヨタは北海道の士別テストコース内に、4kmのストレートを持つ1周10km、250km/hでの走行が可能なテストコースを新設。これは、初代セルシオの開発において200km/h以上での走行が日常茶飯事のアウトバーン対策でもあったが、日本で販売するクルマには不要なハイスピード領域での空力性能、走行性能、燃費性能をテストすることが可能になった。このテストコースができて以来、トヨタのクルマ作りが大きく変わった。つまり、初代セルシオの登場を機に、トヨタのクルマ作りも変わってきたのだ。
売れたのは必然的
トヨタは見えないところは手を抜く、と言われていたが、初代セルシオに関してはいっさいの手抜きなし。それどころか1980年代の初期から高級車マーケットのマーケットリサーチを入念にし、車両開発もトヨタ車としては異例なほど試作車を作ってトライ&エラーを繰り返したという。デビュー時に完成していたと表現したが、トヨタが万全の態勢で臨んだ結果で、ある意味必然だったのだろう。
景気のよさでパワーに溢れていた
クルマから離れるが、セルシオが登場した当時を振り返ってみたい。
セルシオが登場した89年と言えば、バブっていた時期で、景気のよさが後押ししてヤングもアダルトも浮かれていた。私なんぞは、家賃1万9000円の四畳半一間の共同トイレの木造アパートに住んでいながら、DCブランドを身にまとい夜の街を闊歩。寝る間を惜しんで遊ぶという生活を続けていた。今考えると思いっきり”痛いヤツ”なのだが、当時はそれがベストと思って生きていた。見た目なんてどうでもいい、と悟れたのも無駄に背伸びしていたこの時期の経験があったからかもしれない。
通称東コレの『東京コレクション』が初開催されたのは1988年ということで、アパレル業界が最もパワーを持っていた時代だったと言っていいはず。
ウォーターフロントがトレンド
80年代中盤から盛り上がっていたウォーターフロントブームはまだまだ健在で、デートスポットとして大人気。そのひとつに1988年オープンのMZA有明があった。芝浦(東京都港区)をはじめとするウォーターフロントには倉庫を改修したハコのライブハウス、クラブ、レストランなどが続々登場。火付け人は、TANGO(レストラン)、インクスティック芝浦ファクトリー(ライブハウス)を手掛けた松井雅美氏で、空間プロデューサーと呼ばれる人たちが台頭したのもこの頃だった。
MZAの駐車場は高級車の品評会状態
MZA有明は当時松井氏と人気を二分していた山本コテツ氏が手掛けたライブハウスなのだが、当時10号地と呼ばれた有明地区は倉庫街ということで最寄り駅はなく、まさに陸の孤島。今でこそゆりかもめが開通して交通の便はよくなったが、当時は路線バス(MZA有明前)、シャトルバス(六本木or豊洲発着)、クルマのいずれかしかなかった。バブル崩壊、交通悪説の不便さから1991年に営業終了となったが、駐車場はバブっていて、人気車、高額車の品評会のようになっていた。
定番人気の2代目トヨタソアラ(1986~1991年)、2代目ホンダプレリュード(1987~1991年)、R32型日産スカイラインGT-R(1989~1994年)、Z32型日産フェアレディZ(1989~2000年)、そしてセルシオも多数出現し、メルセデスベンツSクラスにも引けを取らない存在感があった。大人気となって納期が1年以上ということもあって注目度も抜群だった。
そのMZA有明が話題になったひとつに、レストラン『サラサ』のワニ料理。が食べられるというのがあった。ちょうどその頃、「ワニを食う男」と呼ばれたプロ野球のヤクルトスワローズのラリー・パリッシュ選手もいたなぁ。
ワニを食す!!
ワニ料理といえばレッドロブスターも思い出深い。私が行っていたのは、レッドロブスターの日本第一号店の六本木店だが、ロブスターは貧乏学生には高価だったのでいつも食べていたのがワニのフライ。3~5ピースでル500~600円くらいだったと思う。ルイジアナ産のアリゲーターにスパイシーな衣をまぶしてガリッと揚げた逸品。ケンタッキーの胸肉のフライドチキンを食べているみたいな味、食感で、そのまま食べてもサルサソースに付けても美味だった。食べると「ワニを食べましたよ」の証明書を発行してくれた。
アメリカのレッドロブスターの運営会社が破産。しかし日本のレッドロブスターはフランチャイズ契約はしているが、別運営のためまったく問題ないという。今後も個性派レストランとして非日常を楽しませてもらえるということでひと安心だ。
セルシオは買い得感が高かった
話を初代セルシオに戻す。初代セルシオは3グレードを設定していた。車両価格はA仕様:455万円、B仕様:530万円、C仕様:550万円、C仕様Fパッケージ:620万円。C仕様のFパッケージは、後席の快適性を高めたモデルという位置づけだった。基本的にグレード間は装備の違いがメインとなっていたが、一番人気は圧倒的にC仕様(Fパッケージ含む)。高級車の廉価版なんぞ買いたくない、買うならトップグレードというユーザーの心理が出たのだろう。
ちなみにライバルとなるベンツ、BMWのモデルの価格は以下のとおりで、車格はSクラス、7シリーズで、価格はその下のEクラス、5シリーズということで買い得感が高かった。
メルセデスベンツ
・230E:534万円
・300E:657万円
・300SE:793万円
・420SEL:1075万円
BMW
・525i:533万円
・535i:698万円
・735i:873万円
今でもセルシオ復活を望む声が高い
初代セルシオが高級車の新たなスタンダードを確立したことは事実だ。日本では500万円以上する高級車がビックリするくらい売れ、人気となったのも事実。その一方で、ベンツSクラス、Eクラス、BMW7シリーズ、5シリーズの日本での販売に影響を与えたかと言えばそうでもないと思う。ベンツ、BMWからの乗り換えも確かにあったが、初代セルシオを買った人の多くはトヨタ車オーナーの上級移行がメイン。
しかし、北米市場ではまったく事情が違い、レクサスLS(初代セルシオ)がベンツ、BMWを駆逐し、続々とユーザーをかっさらっていったのだ。
初代セルシオの登場によってベンツ、BMWが脅威を感じてクルマ作りまで変えてきたというのは北米でのLS人気が契機となっている。日本人にとっては新たな高級車という感覚しかなかったが、北米での評価、影響力は日本人が考えている以上に絶大だったのだ。
日本でのセルシオは初代が1989~1994年、2代目が1994~2000年、3代目が2000~2006年の3モデルを販売したのみ。2006年から日本でレクサス車を販売することになり、レクサスLSに取って代わられた。
一時クラウンマジェスタがトヨタブランドのフラッグシップセダンの座を受け継いだが、セルシオの復活を願う声はいまだに高い。
【セルシオC仕様主要諸元】
全長4995×全幅1820×全高1400mm
ホイールベース:2815mm
車重:1350kg
エンジン:3968cc、V型8気筒DOHC
最高出力:260ps/5400rpm
最大トルク:36.0kgm/4600rpm
価格(東京地区):550万円(4AT)
【豆知識】
日産のプレミアムブランドのインフィニティ第一弾として1989年11月に日本デビュー。セルシオが4L、V8に対しQ45は4.5L、V8を搭載。当時901運動を展開していた日産らしく、走りのいい高級車というコンセプトで開発された。次世代技術と騒がれたアクティブサスを市販化するなど意欲的だった。センターに七宝焼きエンブレムを装着したグリルレスのフロントマスクは賛否が分かれた。販売面ではセルシオに対抗できず苦戦。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/TOYOTA、NISSN、HONDA、MERCEDES-BENZ、BMW、ベストカー