今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第64回目に取り上げるのは1976年にデビューした初代三菱ギャランΛ(ラムダ)だ。
三菱自動車としての歴史は浅い
三菱自動車の礎とも言える海運会社九十九商会が設立されたのは1870年だから、その歴史は150年を超える。和暦にすると明治3年、想像を絶する歴史を持っている。1917年には三菱造船神戸造船所(1934年に三菱重工業に社名変更)が日本初の量産乗用車と言われている三菱A型を登場させている。
そんな長い歴史を誇る自動車メーカーだが、現在の三菱自動車工業となったのは1970年で、1963年に軽トラックのT360で四輪事業に進出した本田技研工業(ホンダ)よりも新しいのだ。
三菱自動車の前身は三菱重工という認識があるが、正確には三菱重工が自動車の専業体制を確立させるため、100%出資して設立された会社だ。
クライスラーとの蜜月の関係
三菱重工は三菱自動車を設立する直前に当時アメリカのビッグスリーの一角をなしていたクライスラー(現在のステランティス)と資本提携。いすゞとゼネラルモータース(GM)の資本提携が1971年だから、日本の自動車メーカーとしては最も早く外資を取り入れたということになる。
三菱自動車とクライスラーの協業は、北米のクライスラーチャンネルでコルトギャランをダッジコルトの名称で販売したのが第一弾で、その後長きにわたり蜜月の関係を続けた。クライスラー資本により資金も潤沢にあり、三菱自動車のクルマ開発に大きな影響を及ぼしていたのは間違いない。
3代目ギャランとコンポーネントを共用
今回紹介するギャランΛのことを説明するためには、ギャランについて触れておく必要がある。ギャランは1969年に初代モデルが登場し、すぐに三菱自動車の主力車種に成長。1970年にフルモデルチェンジして3代目が登場。逆スラント(傾斜)したフロントマスクが与えられたヨーロピアンテイストのデザインが与えられ、他の日本車とは一線画す新鮮さを持っていた。2代目までは4ドアセダン、2ドアクーペ、ワゴン&バンと豊富なラインナップを揃えていたが、3代目では2ドアクーペとワゴンが消滅し、乗用車では4ドアセダン専用モデルになった。同時に車名はギャランからギャランΣ(シグマ)に変更された。
その消滅したギャランの2ドアクーペ版として独立して登場したのが初代ギャランΛで、ギャランΣとエンジン、シャシーなどの基本的なコンポーネントを共用する。