三菱はギャランでWRC復帰
三菱は初代パジェロでパリ・ダカールラリーに挑戦し、それが大きなイメージアップとなっていた。それはWRC(世界ラリー選手権)についても同様だったが、1983年にワークス活動を休止していた。
その三菱がWRCに復帰するにあたり、マシンのベースとして選んだのがギャランだったのだ。WRCは1986年かぎりで市販車とはかけ離れたモンスターマシンで争われていたグループBが終焉となり、1987年からは改造範囲の狭いグループA車両によって争われることになっていたので、高性能の4WDターボ車を市販する必要があった。
VR-4が街中では持て余すような過剰なまでの性能が与えられていたのは、WRCで勝つためだったのだ。
ちなみに三菱の高性能スポーツモデルにはGSRというグレードが与えられていたが、6代目ギャランでは使用されず。VR-4はV(VICTORY)、R(RUNNER)、4(4WD)の意味で、『勝利をひた走る』、つまりWRCで勝つという願望が込められている。グレード名からもギャランがWRCありきで開発されたことがよくわかる。
VR-4はWRCで6勝をマーク
ギャランVR-4はデビューした翌年の1988年からWRCに投入され、ランチアデルタ、トヨタセリカGT-FOUR、マツダ323(日本名ファミリア)などと総合優勝を争い、1989年の1000湖ラリー(フィンランド)で初優勝。
WRCでギャランVR-4は1992年までに合計6勝を挙げ、その6勝のうちの2勝(1991年、1992年のアイボリーコースとラリー)は、2024年3月に逝去された篠塚建次郎氏がマークしたものだ。
WRCによりイメージアップ
WRCで勝つために進化を続けたのもVR-4の特権だった。2Lターボエンジンは、1989年に220ps、1990年に240psへとパワーアップさせるなど毎年のように手を加えて戦闘能力を高めた。この進化をファンは絶大に支持し販売も好調と好循環。
となれば、この高性能4WDセダンをATで乗りたいという需要も高まり、それに応えて220psにパワーアップさせた時に4ATモデルを追加して新たなユーザーを獲得した。4ATモデルは信頼性確保のため210psとパワーダウンしていたが、不満など出るわけなし。
勢いに乗る三菱は、WRC優勝記念車など限定車を巧みに販売し、イメージ戦略もバッチリ。
ランサーエボリューションはVR-4の実質後継車
6代目ギャランは1992年まで販売されて、7代目にバトンタッチとなったが、WRCに関してその後を継いだのが1992年にデビューしたランサーエボリューションだ。
ランサーエボリューションは、ギャランで培った強力なパワーユニット、強靭なボディ&シャシー、走破性に優れた4WDシステムをギャランよりも小さなボディに搭載する究極のコンペティションモデルとして開発された。
その超絶な性能、インプレッサとの宿敵対決などについては別の機会に触れたいと思うが、ギャランVR-4があったからランエボが存在すると言っていいだろう。
ギャランAMGは隠れた名車
6代目ギャランシリーズではトップグレードのVR-4に注目が行くのは当然だが、最後に1989年のマイチェン時に追加されたAMGにも触れておきたい。AMGが関与した三菱車は、1986年デビューのデボネアAMGがあったが、こちらはエアロパーツ、アルミホイール、内装などのドレスアップだけだったが、ギャランAMGは別物だった。
三菱が4G63エンジン(ノンターボ)をドイツのAMG(現在のメルセデスAMG)に空輸し、それをAMGが専用チューニング。そのAMGチューンのエンジンを三菱のエンジニアが再現するという非常に凝ったものになっていた。エンジンのほか足回りもAMGがチューニングしていた隠れた名車だ。
ターボとは違う滑らかなフィーリングは絶賛されていたが、4WDターボのVR-4よりも高い280万円の価格がネックとなり販売は振るわなかった。
6代目ギャランは、斬新なコンセプトに始まり、幅広いエンジンバリエーション、WRCで勝つためのトップモデルのVR-4、超絶玄人好みのAMGなど、とにかくチャレンジングなクルマだった。
【ギャランVR-4主要諸元】※デビュー時
全長4560×全幅1695×全高1440mm
ホイールベース:2600mm
車重:1340kg
エンジン:1997cc、直列4気筒DOHCターボ
最高出力:205ps/6000rpm
最大トルク:30.0kgm/3000rpm
価格:278万1000円(5MT)
【豆知識】
日産は1995年のフランクフルトショーでミドシップ4WDスポーツのミッド4を公開。その進化版がミッド4-IIで、ボディサイズは全長4300×全幅1860×全高1200mm、エンジンは3L、V6DOHCツインターボ(330ps/39.0kgm)となっていた。ジャーナリスト向けに試乗会が開催されるなど、日産は本気で市販化を目指していたが、財政の悪化、市販するなら車両価格が1000万円オーバーとなり販売が見込めないなどを理由に市販化を断念。エクステリアデザインはミッド4、ミッド4-IIともに前澤義雄氏が手掛けた。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/MITSUBISHI