連絡線の廃線跡を現代に探る
JR日暮里駅からJR鶯谷駅に向かう線路沿いには、谷中(やなか)霊園が隣接しているが、この位置関係は連絡線があった当時と同じである。1945(昭和20)年当時の省線は、今と同じように山手線、京浜東北線、東北本線、常磐線が走っており、線路の本数も今と変わらない。
では、連絡線はどこに敷設されていたのか。その答えは谷中霊園の敷地にあった。谷中霊園のJR線路寄りには、ちょうど線路一本分の空地があり、ここに「連絡線」が敷設されていたのだ。谷中霊園のJR鶯谷駅寄りには「台東区立芋坂児童遊園」という小さな公園があり、ここも連絡線の延長線上に位置する。この公園用地は、実のところ鉄道用地であり、今もJR東日本が台東区に貸し付けている土地なのだ。この公園内には、JRの線路を跨(また)ぐ芋坂跨線橋(いもざかこせんきょう)が通っており、その橋脚の間隔は“ここに線路がありました”と言わんばかりの造りなのである。
京成本線との接続部分
連絡線が京成本線に接続していたであろう場所には、今では住宅が建っており当時をうかがい知ることはできない。その少し手前にある「御隠殿坂跨線橋(ごいんでんざかこせんきょう)」は、連絡線があった当時は橋の一部が撤去されていた。このことは当時の空中写真からも確認できる。今も橋の欄干に見る構造の違いは、橋を架け直したためであろう。
戦時統制化に建設された連絡線は、その機密保持のため、図面や書類、写真のすべてが焼却処分されており、今に残るものは空中写真以外は何もない。そして、この連絡線が存在した時期は、東臺門トンネルを運輸省に貸し出していた1945(昭和20)年6月11日から9月30日の間のごくわずかな期間だったことくらいしか、わかっていない。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち 日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。