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連絡線の廃線跡を現代に探る

JR日暮里駅からJR鶯谷駅に向かう線路沿いには、谷中(やなか)霊園が隣接しているが、この位置関係は連絡線があった当時と同じである。1945(昭和20)年当時の省線は、今と同じように山手線、京浜東北線、東北本線、常磐線が走っており、線路の本数も今と変わらない。

では、連絡線はどこに敷設されていたのか。その答えは谷中霊園の敷地にあった。谷中霊園のJR線路寄りには、ちょうど線路一本分の空地があり、ここに「連絡線」が敷設されていたのだ。谷中霊園のJR鶯谷駅寄りには「台東区立芋坂児童遊園」という小さな公園があり、ここも連絡線の延長線上に位置する。この公園用地は、実のところ鉄道用地であり、今もJR東日本が台東区に貸し付けている土地なのだ。この公園内には、JRの線路を跨(また)ぐ芋坂跨線橋(いもざかこせんきょう)が通っており、その橋脚の間隔は“ここに線路がありました”と言わんばかりの造りなのである。

芋坂跨線橋から見た連絡線跡。写真の奥側に向かってゆるやかな傾斜地を造成して連絡線を敷設し、省線と京成本線との高低差を解消した=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木
JR(旧国鉄から継承)から用地を借り受けている台東区立芋坂児童遊園。公園内には、JRの線路を跨ぐ芋坂跨線橋があり、その橋脚の間隔は鉄道の線路跡そのものだ=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区谷中

京成本線との接続部分

連絡線が京成本線に接続していたであろう場所には、今では住宅が建っており当時をうかがい知ることはできない。その少し手前にある「御隠殿坂跨線橋(ごいんでんざかこせんきょう)」は、連絡線があった当時は橋の一部が撤去されていた。このことは当時の空中写真からも確認できる。今も橋の欄干に見る構造の違いは、橋を架け直したためであろう。

戦時統制化に建設された連絡線は、その機密保持のため、図面や書類、写真のすべてが焼却処分されており、今に残るものは空中写真以外は何もない。そして、この連絡線が存在した時期は、東臺門トンネルを運輸省に貸し出していた1945(昭和20)年6月11日から9月30日の間のごくわずかな期間だったことくらいしか、わかっていない。

京成本線と連絡線の接合部分。奥のトンネル開口部から続くコンクリート擁壁(ようへき)が、この場所だけ石積みに変わる。そして再びコンクリート擁壁になっていることからも、この石積み擁壁の場所が接合部だったのではないかと推測する=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木
御隠殿坂跨線橋は、連絡線を通すため一時期、橋の一部が撤去された。橋の構造が手前側と奥側で異なっているのは、このためではないだろうか=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木

文・写真/工藤直通  

くどう・なおみち 日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。

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