鉄道の「廃線」を巡る

上野公園の地下に鉄道の防空壕 レール幅が違う!戦争末期、京成本線が一時つながった路線とは

京成本線にある「東臺門(とうだいもん)トンネル」は、上野台地の地下を通り京成上野駅へと至る=2003年10月5日、東京都台東区上野桜木

”上野の森”とも呼ばれる上野恩賜公園の地下深くには、上野と成田空港を結ぶ京成本線が走っている。先の大戦では、省線(現在のJR線)の車両を空襲から守るため、この鉄道トンネルは”防空壕”として使用された。今のJR線も昔の省線も、京成本線の線路とはつながっていない。それはレールの幅が違うからなのだが、”防空壕”として使用されていた当時、省線と京成本線はある一時期だけ、連絡線を介してつながっていた。では、いったいどのようにして線路をつなげたのか。戦時下の史実とともに、廃線跡をたどることにしよう。

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”上野の森”とも呼ばれる東京・上野恩賜(おんし)公園の地下深くには、上野と成田空港を結ぶ京成本線が走っている。先の大戦では、省線(現在のJR線)の車両を空襲から守るため、この鉄道トンネルは”防空壕”として使用された。今のJR線も昔の省線も、京成本線の線路とはつながっていない。それはレールの幅が違うからなのだが、”防空壕”として使用されていた当時、省線と京成本線はある一時期だけ、連絡線を介してつながっていた。では、いったいどのようにして線路をつなげたのか。戦時下の史実とともに、廃線跡をたどることにしよう。

※トップ画像は、上野台地の地下を通り京成上野駅へと至る京成本線の「東臺門(とうだいもん)トンネル」=2003年10月5日、東京都台東区上野桜木

上野公園の地下トンネル

京成本線の京成上野駅が開業したのは、1933(昭和8)年12月10日のことで、当初は「上野公園」駅と呼ばれていた。上野公園駅から日暮里駅に至る2.1キロメートルの路線のうち、1.4キロメートルは地下トンネル区間で、その名を「東臺門(とうだいもん)トンネル」という。途中には2つの駅が設けられていたが、現在はどちらも廃止されている。ひとつは「博物館動物園」駅で2004(平成16)年に、もうひとつの「寛永寺坂」駅は1953(昭和28)年に廃止された。

トンネルの名称にある”東臺”とは、かつて上野公園の地にあった「東叡山寛永寺」の”東”の字と、「上野台地」にあったことに由来する”台”の字の旧字「臺」にちなむもの。

トンネルの入口に掲げられた細長い額・扁額(へんがく)には、右書きで「門臺東」と記されている。揮毫(きごう)は、京成電鉄の創立者である本田貞次郎氏によるもの=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木

鉄道車両と運輸省の疎開

先の大戦で、アメリカ軍による東京への空襲が激化した1945(昭和20)年6月になると、当時の運輸省の機能と鉄道車両の一部を疎開させることが計画された。そこで目を付けたのが、上野公園の地下を通る京成本線のトンネルと地下駅だった。当時の運輸省は、戦時政策により国鉄の業務を担っており、組織としての国鉄や、かつての鉄道省は存在していなかった。その運輸省の機能を地下駅に移し、一部の鉄道車両を併せて疎開させて、その鉄道車両は”宿泊施設”として使用する目論見だった。

当時の京成本線のレール幅は1372ミリ(現在は、新幹線や関西の私鉄で使われている標準軌1435ミリ)で、省線の1067ミリ(JR在来線や関東の私鉄で使われている狭軌のサイズ)とは異なるレール幅であった。現在のJR線と京成本線は、今もJR日暮里駅とJR鶯谷駅の間でオーバークロス(二つの鉄道線路の立体交差)しているが、この地の利を生かして省線の線路と京成の線路をつなげるという”暴挙”に出たのだ。

京成本線は、運輸省の指示により1945(昭和20)年6月10日に上野公園駅(現・京成上野駅)と日暮里駅間の運転を取り止め、東臺門トンネルを運輸省に貸し出した。ところが、レールの幅が違う線路同士をどうやってつなげるのか。戦時下ゆえの強制措置として、京成本線の線路を剥(は)がして、省線の線路を新たに敷設したのだった。省線から京成本線の間は、「連絡線」を急ごしらえで建設し、これにより”戦時疎開”する省線の鉄道車両は、京成本線の東臺門トンネルの中へと運び込まれた。

青線で示したのが、当時の省線と京成本線を結んだ連絡線=写真/国土地理院「空中写真」M372-47=1947(昭和22)年7月9日 写真の注釈は筆者

連絡線の廃線跡を現代に探る

JR日暮里駅からJR鶯谷駅に向かう線路沿いには、谷中(やなか)霊園が隣接しているが、この位置関係は連絡線があった当時と同じである。1945(昭和20)年当時の省線は、今と同じように山手線、京浜東北線、東北本線、常磐線が走っており、線路の本数も今と変わらない。

では、連絡線はどこに敷設されていたのか。その答えは谷中霊園の敷地にあった。谷中霊園のJR線路寄りには、ちょうど線路一本分の空地があり、ここに「連絡線」が敷設されていたのだ。谷中霊園のJR鶯谷駅寄りには「台東区立芋坂児童遊園」という小さな公園があり、ここも連絡線の延長線上に位置する。この公園用地は、実のところ鉄道用地であり、今もJR東日本が台東区に貸し付けている土地なのだ。この公園内には、JRの線路を跨(また)ぐ芋坂跨線橋(いもざかこせんきょう)が通っており、その橋脚の間隔は“ここに線路がありました”と言わんばかりの造りなのである。

芋坂跨線橋から見た連絡線跡。写真の奥側に向かってゆるやかな傾斜地を造成して連絡線を敷設し、省線と京成本線との高低差を解消した=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木
JR(旧国鉄から継承)から用地を借り受けている台東区立芋坂児童遊園。公園内には、JRの線路を跨ぐ芋坂跨線橋があり、その橋脚の間隔は鉄道の線路跡そのものだ=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区谷中

京成本線との接続部分

連絡線が京成本線に接続していたであろう場所には、今では住宅が建っており当時をうかがい知ることはできない。その少し手前にある「御隠殿坂跨線橋(ごいんでんざかこせんきょう)」は、連絡線があった当時は橋の一部が撤去されていた。このことは当時の空中写真からも確認できる。今も橋の欄干に見る構造の違いは、橋を架け直したためであろう。

戦時統制化に建設された連絡線は、その機密保持のため、図面や書類、写真のすべてが焼却処分されており、今に残るものは空中写真以外は何もない。そして、この連絡線が存在した時期は、東臺門トンネルを運輸省に貸し出していた1945(昭和20)年6月11日から9月30日の間のごくわずかな期間だったことくらいしか、わかっていない。

京成本線と連絡線の接合部分。奥のトンネル開口部から続くコンクリート擁壁(ようへき)が、この場所だけ石積みに変わる。そして再びコンクリート擁壁になっていることからも、この石積み擁壁の場所が接合部だったのではないかと推測する=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木
御隠殿坂跨線橋は、連絡線を通すため一時期、橋の一部が撤去された。橋の構造が手前側と奥側で異なっているのは、このためではないだろうか=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木

文・写真/工藤直通  

くどう・なおみち 日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元日本鉄道電気技術協会技術主幹。芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、鉄道友の会会員。

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