昭和天皇は、戦後に行われた全国巡幸で、夜行列車や、駅に滞泊停車したお召列車を、宿泊場所として利用されたことがある。こうしたご様子はこれまでにも紹介させていただいたが、ほかでは“停泊する船”を宿泊施設として利用されたこともあった。船内での食事は、山陽鉄道ゆかりの料理を召し上がった。では、その料理とはどのような献立だったのか。その内情に迫ってみたい。
※トップ画像は、昭和天皇が船中で宿泊した”関釜(かんふ)連絡船”の「興安丸(こうあんまる)」=写真/宮内公文書館蔵
地域の料理を提供
1946(昭和21)年2月から始められた全国巡幸。その際に提供される昭和天皇の食事は、宮内府(当時)の大膳寮によって調理されたものを召し上っていた。ところが、1947(昭和22)年8月に実施された東北6県への巡幸から、地域の「郷土食」を召し上がることになった。昭和天皇が「その土地の食事(郷土食)を希望された」ことから、始められたという。
このため、“天皇の料理番”として知られた大膳寮の秋山徳三主厨長が、事前に現地を訪ね、どのような料理があるのか下調べを行なった。当初は夕餐(ゆうさん)のみだったが、次第に昼餐(ちゅうさん)の献立にも広がりをみせていく。もちろん、調理は宿泊先の旅館などの料理人が行なった。残念ながら、最初に召し上った郷土食が何だったのか……といった記録は表向きの資料には残されていない。また、宿泊先は毎回が旅館というわけではなく、公会堂や自治体庁舎などの場合もあり、必ずしも郷土食を召し上がったわけではなかったようだ。
宿泊した船は、関釜連絡船
昭和天皇は、1947(昭和22)年11月26日から岡山、鳥取、島根、山口、広島の5県を巡幸された。途中、京都御所、鳥取県の三朝町(みささちょう)、米子市、島根県の松江市玉造(たまつくり)、浜田市、山口県の萩市を経て、12月2日16時2分着のお召列車で山口県にある下関駅へと到着された。その日の宿舎は、下関駅桟橋に停泊した関釜(かんふ)連絡船の「興安丸」であった。関釜連絡船とは、下関と韓国の釜山(プサン)を結んでいた当時の運輸省直轄の鉄道航路で、先の大戦により休航状態にあった。
船内では、最上階にある客室の一部を「御座所(天皇の居間)」「御寝室」「浴室」などにあて、利用した。一つ下の階には「食堂」が備えられていたが、昭和天皇がどこで食事をとられたか、といった記録は見あたらなかった。この船での宿泊は1日限りで、翌朝には下関市内を視察ののち、次の訪問先である山口県西部にある防府市(ほうふし)へと向かわれた。なお、この巡幸の帰路となる12月11日から12日にかけては、“夜行のお召列車”を利用されている。