65パーセントの収税におびえる作家を襲ったさらなる不幸とは
金持ちになったのは嬉しかったが、歓びを顔に出してはならなかった。勘のよい税吏が、ゴール直前の私の大声――「そのまっまー!残れェー!吉田ーッ!追えー、追えー!よおっし、できたっ!」を耳にしており、ひそかに尾行しているかもしれぬと考えたからである。
家に戻ってからも、私はひたすら沈鬱な表情を装った。家族は私がさぞかし大敗を喫したのであろうと思ったのか、腫(は)れ物にさわるように扱った。
壁に耳あり障子に目あり、である。ゴミ捨て場を共用しているご近所に、税吏が住まっているかもしれぬ。娘の予備校の友人が、税務署員の子供かもしれぬ。老母の茶飲み友達が、国税局OBであるかもしれぬ。
食事中に家人が、
「お狙いになってらしたメジロランバート、いかがでした」
と訊いた。とっさに私はギョーザを噴いて取り乱し、しどろもどろで、
「ま、見るべきところはあったな」
などと曖昧(あいまい)な答弁をした。
言いたい。よくぞ聞いてくれた、俺の狙ったメジロランバートは、一勝馬の身でありながら並いるオープン馬を敵に回して、2着に来たのだ。そして俺は、タヤスアゲインVS.メジロランバートの万馬券を、しこたま取ったのだ。その馬券は、ホレここに、このワイシャツの胸のここに、ホレホレホレ、あるのだよ!
言いたいけど、言えなかった。
食後、サクサクと書斎に戻り、施錠を確認したのち税理士に電話をした。
「もしもし、センセ? 浅田です」
「はい……また、なにか?」
巨額の納税が確定してよりこのかた、私は夜な夜な税理士に呪いの電話をかけ続けているのであった。
「実は、きょう……」
かくかくしかじかと、私は本日の出来事と私の懸念について、ありていに話した。
(ううむ。それは正しいご判断でした。とかく税金は取りやすいところから――)
とか言うかと思いきや、税理士はカッカッカッと高笑いをしたのである。
「あの、浅田さん。ちょっとノイローゼじゃないですか。そりゃ、くやしいのはわかります。税制におけるグローバル・スタンダードのご主張も、作家生活における30年間平均課税適用の論理も、むろんわからんわけじゃありません。しかしね、当たり馬券に課税されたという事例は聞いたことがありません。ましてや大口払戻窓口に税務署員が待ち伏せしているなんて、あなた、そりゃ妄想ですよ。大丈夫ですか?ちゃんと睡眠をお取りになってますか?」
ノイローゼではないと思う。アトランティック・シティでの出来事以来、税金は私にとっての恐怖そのものなのである。少くともこんな生活を続ければ、私の余命は長く見積もってもあと5年、という気がするのである。ともかく、激務を物理的にサポートするだけの金の余裕がない。いずれ税金に殺される。
あくる日、私は税理士の言葉を信じて堂々と当たり馬券を換金した。
ちょっと怖かったけれど、やはり大口窓口に税務署員はいなかった。もしかしたら日曜日は休みなのかもしれないし、たまたまその窓口にはいなかったのかもしれないが。
ところで、予期せぬ悲劇はその日に起こった。
私は競馬場に行くとき、必ず一定の所持金を決めている。そしてその金額は性格に応じて案外と少ない。つまり、収税の懸念さえなければ、私は前日の最終レース終了後に的中馬券をすべて換金し、あくる日は再び規定の所持金を持って出かけたはずなのである。
日曜日の朝一番で換金をした私は、持ち慣れぬ金にすっかり目が曇り、分不相応の勝負をくり返した結果、オケラになった。
こうして私は、65パーセントの懸念のために、100パーセントの納税をしてしまったのであった。
わかった。今後は私自身の幸福のために、納税は国民の義務だと信じよう。
この心境は、一種の解脱である。
(初出/週刊現代1998年5月30日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。